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2004/05/30(日)
沖田総司命日に寄せて〜紫陽花〜
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『 紫陽花 』
目を開けると、見慣れた天井がそこにある。 木目が波のようにうねり、その波形の合間に渦を巻いている箇所がいくつかある。 その数まで、もうすっかり覚えてしまった。 見慣れて、見飽きた天井。 私はいつまでこの模様を睨み続けなければいけないのだろうか。
先生方が江戸を去ってから、もう大分になる。 幾日経ったか数えることはとうに投げ出してしまった。 ただ、あの日はまだ枯れ木のようだった紫陽花が、今は雨露にその花びらを濡らしている。
とん、とん、と屋根を叩く雨音がぼんやりとした意識の中に入り込んでくる。 断続的に続くその音は、太鼓の音に似ている。いつかの縁日を、忘れかけていた何かを、思い起こさせる。
九つで試衛館に入った私を、いつも可愛がってくれたのは、源さんや若先生だった。 子犬の名前ですら決して忘れない優しい若先生は、嫌な顔一つせず、私をお祭りの縁日に連れて行ってくれた。私が大きくなってからは、忙しくなった先生よりも源さんの方がよく付き合ってくれて、先生にはよく子供だと言われたものだ。そんな先生を鬱陶しく思ったことも正直あった。だけど、眠れないでいる夜などには、傍につきまとう私の話を、笑顔で誰よりも根気強く聞いてくれたっけ…。
傍にいるのが当たり前だと思っていた人が傍にいないのは、ひどく不思議な感覚だ。 再び閉じていた瞼を開くのをためらいながら、私は雨音に耳をすませた。 何かを、私は忘れている。庭先で跳ねる雨粒のもたらす音は、忘れた何かを思い出すよう、呼びかけてくるようで、私は無闇に焦りを感じた。
先生の負傷。 もう刀や槍の時代じゃない、との土方さんの言葉。 一人、二人、死んでいった仲間達。 初めて命を奪った相手。 その私の命を奪うであろう、この病…
思い出すべきは、そんなことだっただろうか。 塗りに浮かぶ様々な出来事に、何だか可笑しさを感じて苦笑がこぼれた。 たった二十数年しか生きていないというのに。
「色んなことがあったんだよなぁ…」
楽しいことばかりではなく、ひどく辛く悲しい思いをした事もあったけれど、これだけ中身の濃く、深い人生を送れたのだから。 それで満足しよう、と、諦めに似た、いっそ清々しいほどの思いを感じ、私は笑みを浮かべてみた。
ただ一つ願うことは、土方さんが近藤先生の傍から離れないでいてくれること。 お互いにとって最後の砦のあの二人が、分かれることは余りにも酷く辛いことだから。
雨粒が軒を叩く音が部屋の中に響いている。 ふと、外の様子が見たくなって障子に手を伸ばしたが、届かない。 身体を起こそうとして、思うように力の入らない腰や背に、今更ながら愕然とした。いつのまに、私はこんなに力を失ってしまったのだろう。 刀を振るうことも、歩くことも、身体を起こすことさえままならない。 突然、恐ろしいまでの焦燥に駆られ、私は何とかありったけの力を使って半身を起こし、障子を開いた。
障子を開くと、雨の日の独特の空気の匂いと共に、片隅に植えられた紫陽花の鮮やかな紫色が目に飛び込んできた。 しっとりと濡れた小さな花びらの先から、涙のようにしずくが滴り落ちている。 眩しいほどの色彩。 その鮮やかさを目にした途端、視界がぼんやりと揺らいだ。 頬に落ちる感触で、それが自分の流した涙だということに気付く。
『紫陽花の花が咲く頃までには、一度便りをくださいね』
近藤先生に最後に会った日、別れの時間の近付く中、何を言えば良いのか浮かんで来なくて、咄嗟に庭先の、枯れ木のような紫陽花の木を指差して言った一言だった。近藤先生は少しの間を置いて、ああ、と答えてくれた。そして、先生の着物の膝を掴んだ私の手をしっかりと握って微笑んだ。
あれから、どれだけ経ったのだろう。 紫陽花の花が満開を迎え、蕾も残りわずかとなったのに、便りは来ない。
(…先生は、生きているのだろうか…)
一度も考えなかった思いが頭を過ぎり、私は無我夢中で紫陽花の紫色を捕まえようとした。しかし、指先がわずかに雨に濡れただけで、腕は失望だけを掴んで宙を彷徨い、落ちた。
「死にたくない」
忘れようと封じ込めていた気持ちが口をつく。一度も口にした事が無かった言葉。
「死にたくないよ…先生」
もう一度。 せめて、もう一度。 あの昔に戻りたいと。 一度堰を切った思いは止まることがなく、溢れ続けた。
「私はずっと近藤先生達と一緒にいたかったんだ…」
あの日、そう真正面から言えば良かった。 取り乱すまいと心配をかけるまいと、これ位大したことじゃないと、自分に言い聞かせて、思いは全て紫陽花に閉じ込めて。
降り止まぬ雨音の響く中、紫陽花の紫色だけがひっそりと、移り変わりゆく時の流れを伝えていた…。
−5月30日、沖田総司命日に寄せて…−
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