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2009/03/02(月)
SSの続き
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↑の続き
「あのね、オレも小さいとき一人で野球してたんだ」 「一人?」 「ん、一人。一緒に野球してくれる友達もいなくて、投げるボールを受け止めてくれる人もいなかった」 「…さみしく、なかった?」
瞳がすがるように揺れる。 同じ思いをしてきた自分だからこそわかる。 野球が好きだったからこそ、それがどんなに辛いことなのか。
「辛かった、かな。すごく。でもね、すごい時間がかかったけどね、待っていてくれる人に出会うことができたんだ」 「誰?」 「大切な友達…ううん、それ以上の仲間。一緒に甲子園を目指してくれるチームメイト」
高校で彼らに出会うことができたからこそ、今の自分がいる。 野球を心の底から大好きだと言い切れる、自分が。
「ふぉっ! 甲子園! お兄ちゃん甲子園に行ったの!?」 「行ったよ。いっぱい練習して、いっぱい戦って、みんなであのグラウンドに立ったよ」
あのときのマウンドの感触は、プロになった今でも忘れることなんでできない。 熱く湧き上がる胸のうちを押さえるために、小さく深呼吸をしてから、 『甲子園』という魔法の一言に目を輝かせる幼い自分の髪をそっとなでる。
「だからね、あきらめないで。今は、一緒の野球をしてくれる仲間がいないかもしれないけど。 これから先、もっと辛いことがあると思うんだけど。それでも、お願い。野球だけは嫌いにならないで。 きっと、待っていてくれる人たちがいるはずだから。出会うことができるはずだから…」
かけがえのない、仲間たちに。
小さな頭が困ったように傾く。
「…オレにもできる、かな?」
掠れた声に、力強くうなずく。 自分だって信じてなんかいなかったんだ。 そんな仲間がいるだなんて。 でも、今は。知っているから。 迷うことなく答えを返すことができる。
「できるよ! 時間はかかるかもしれないけど必ず!」 「ほんと、に……?」 「うん、絶対に。オレを信じて」
今日であったばっかりの見知らぬ男の言葉なんて、そう簡単に信じられるものではないはずなのに、 それでも言葉に込めた思いは小さな自分にわずかなりとも伝わったらしかった。 不安に翳っていた顔に笑顔が戻ってくる。 目の前に食べかけのメロンパンが差し出された。
「これ、おにいちゃんにあげる!」 「オレ、に?」 「うんっ! お礼! 食べてみて!」
促されるままにかじったメロンパンはふわりと甘く。 記憶にあるものよりもずっと甘く感じた。
「おいしい」 「でしょ〜。オレの一番好きなパンなんだ!」 「でも、いいの? ほとんど食べてないのにオレにくれて?」 「うんっ! おにいちゃんにならいいの! だって、頑張ればオレもきっとおにいちゃんみたいに甲子園行けるかもしれないんだよね!」 「……うん、行けるよ! きっと」 「うひっ! それに、ね」 「それに?」
聞き返した三橋の耳元に小さな唇が寄せられる。 まるで秘密を打ち明けるように囁かれた言葉には、抑え切れない喜びが溢れていた。
「オレ、野球だけは、きっと、ずーっと好きだ、よ! だからね、おにいちゃんもオレと同じで、野球が大好きって、言ってくれて、すっごくうれしかったん、だ。 だから、そのお礼!」
たったそれだけのことなのに、泣きたくなった。 忘れていないつもりだったけれど、忘れていたのかもしれない。 プロになって、その忙しさの中に忙殺されていたことで、 自分の中にはどんなことがあっても、野球だけは好きだという強い気持ちがあったということを。
(元気付けるつもりが、逆に教えられちゃったかな)
それでも嫌な気分なんてこれっぽっちもない。 むしろ今まで以上の熱が生まれていた。
「あっと…、オレもう帰らなきゃ。おにいちゃん、バイバイ」 「……あっ、うん。バイバイ」
何度もこちらを振り返りながら、小走りに遠ざかっていく背中が見えなくなったとき。 くらりと視界が歪んだ。
「……はしっ、おい、三橋!」 「う、おっ!?」
肩を揺すぶられて我に返る。
「あ、れ…ネコは?」 「猫ぉ〜? おい、昼間っから寝ぼけてんのか? どこに猫がいるって?」 「え、でも、さっき…そこに」
ぼんやりする意識のまま、辺りを見回すとそこはさっきまでいたはずの公園でも、 初めに猫を追いかけていた場所でもなく、見慣れたロッカールームだった。
「練習しすぎて、疲れてんじゃねーのか?」 「そうなの、かな?」
ほんとうに自分は夢を見ていただけなんだろうか。 頭の中がふわふわして考えがまとまらない。 黙り込んでしまった三橋に、チームメイトは気を利かせてくれたのか「練習にはもう少し休んでから来い」と苦笑しながら肩を叩いて去っていく。
しばらくそのままぼんやりとしていた三橋だったが、 さすがにいつまでもそうしていられないと思い腰を上げた。
すると。
ちりん。
床の上に小さな鈴が転がり落ちて、澄んだ音色が静まり返った部屋の中に響いた。
「鈴…!」
慌てて拾い上げる。摘み上げたそれは丸い小指の先ほどに小さな鈴。 控えめな照明の下。それは淡い金色の輝きを放っていた。 ついさっきまで黒猫の首についていたものと同じだ。
「夢…なんかじゃない」
なぜか、そう確信できた。 黒猫を追いかけたのも、過去の自分に出会ったのも、 甘いメロンパンを食べたのも、どれだけ非現実だといわれようが全部夢なんかじゃない。 溢れる想いに、胸が熱くなる。
「ありがとう」
大切なことを思い出させてくれた鈴に三橋はそっと唇を寄せた。
ちりん。
鈴の音とともに、かすかに猫の泣き声が聞こえたきがした。
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