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2005/02/27(日)
義家 弘介 講演会
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北星学園高等学校の教師を来月 3/31(木)に辞職する貴重な講演会とあって、県内外から往復はがきで当選した800名余りだけが聴ける、『ヤンキー母校に生きる!』の講演会。
まずは今日、講演会を聴いた後の 『義家 弘介 日記』をHPで読んだら、こう書いてあった。
“富山県PTA連合会”
今日は講演で富山にきています。 会場に向かう車の中から,そとの景色を眺めていたら,俺の故郷の長野市の風景と重なって,子どもの頃家族で富山に旅行したときの風景と重なって,なんだか胸が締め付けられる思いになりました。 記憶っていつもはまったく意識していなくても,心のどこかにしっかりと残っているものですね。 今後,母校を退職してから余市を訪れたときは,一体,どんな気持ちを抱くんだろう・・・。
これから心を込めて精一杯の思いを語ってこようと思います。 会場にかけつけてくれる全ての人々に熱が届くように・・・。
今日は夜に北海道に帰り,明日は,3月1日にひかえた卒業式のリハーサルです。 残された日々を大切に,母の胎内で生きていきます。
義家弘介
今日の講演会を聴きたかったのには訳があった。 2/14(月)バレンタインデーの日、彼も私と同様、辛い日を送ってたって事。
この日の日記の後、HPへのアクセスが300万件となり、サーバーがパンクして起動すらしなかった反響は、何を意味した社会現象なのか・・・。
で、そのサーバーがパンクした日の 『義家 弘介 日記』とは
2005/02/14(Mon)
“母 ”
gooのコラムに,今年度限りで北星学園余市高等学校を去るという告白をしました。 ずっと日記を見ていただいていた方は,うすうす感じていらしたかも知れませんが,去年からずっと渦中の中に身を置きながら生徒たちと向き合っていました。詳しいことは書くことができませんが,本当に辛く悲しい一年でした。 そして,そんな俺を支えてくれたのは,生徒たち,そしてみなさんでした。 何度も書いている。 本当は俺が誰かを救っているんじゃない。生徒たちや,みなさんが,力なき俺を支え,救ってくれているんです。
生まれてすぐ産みの母と別れ,十七歳で母校と出会い,そして三十四歳で母校から旅立ちます。 俺の人生にとって,母とは永遠の課題です。
この先,俺は文筆家になるつもりも,教育評論家になるつもりもありません。そんな俺をきっと誰も求めてはいないだろう。俺はあくまでも『現場』というものにこだわってこれからも歩んでいきたいと思っています。
今日は心がズタズタになってしまっています。 でも,明日には力を取り戻して,生徒たちと向き合いたいと思っています。
この日記の心境と答えをこの講演会で聴きたかった。
本人が見てた生徒の母親からこんな電話があると言う。 『義家先生がうちの子を甘やかすから、まだあんな状態なんですよ!』と。酷い母親だと思う。我が子、不良少年を北海道に送っておいて、よい子?になってないからと言って、学校の教育者に責任を押し付けるなんて! 自分がその母親にキレそうだわ。
そりゃ、お腹を痛めて産んだ我が子を更生させたい気持ちは分かるが、独りのスーパーマンだけの力では良くならない事を、義家先生は強く語ってた。
母親に、『お父さんに代わって下さい!』と電話で言うそうだ。ヒステリックな状態の母親にこの生徒の気持ちわ理解してくれる家族を必死に探す動きが、義家先生の真剣さが現れている。 大変な職種に就いている方だと思った。今の自分の方がまだ楽かも!と思った。
講演会でその答えを、義家 弘介自身の口から出なかったが、今日視聴してた800名余りの方にはその答えが伝わったと思う。
彼の人生は確かに酷いに相応しい内容である。でもそれが生きてきた人生、これから変えてく人生は言うまでもない。
私が知る教師が沢山、この講演会を視聴しに来てた現状。明日からこの先生も少しは変わるだろう。
自分の明日への英気を養えた日曜日だった。明日28日はビジネスにとっても方向付けを迫られる大事な日だから・・・。
【添付画像】は、カメラ、ビデオ、録音、ケータイカメラ厳禁の講演会の会場から。えっ!?何故撮ってるの?って。講演会が終わって、殆どこの会場から皆が出て行った状況での1シーンなんです。ダメだったのかも・・・スミマセン。
1ヶ月半ぶりに家族全員で夕食を楽しんだ。妻とも久々な家での食事会。焼肉パーティーだった。しかも高い肉を父親が買って来た。こんな高いのをわざわざ切って貰わなくても・・・。
気持ち良くビールも味わって今宵の夜を楽しんだ。そんな中、外出命令が・・・。
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