わし的コラム日記
日頃、感じることを思うままに書いていこうと思う。
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2005/02/20 日記からブログに移行しました。
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2005/02/14 1周年を迎えました。ペコリ(o_ _)o))

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2004/03/30(火) お休み中
頭痛激しく、8度以上をキープ。
ジュエルと、鈴も心配してくれるが、
所詮、犬なので、ご飯は作ってくれず・・。

仕方ないので、友人にもらったリンゴと甘酒を食べる。

基本的にわしは、肉食のハイカロリストなので、物足りず。

元気になったら、焼肉屋に行くと心に誓う。

「とりあえず、塩カルビ・塩ハラミ・塩ホルモン・・
あぁそれから石焼ビビンバ・・ユッケだなっ・・。」と、
仲良しの医者に言うと、「だーかーらー」と怒られる・・。

野菜食えと言われても、わし、ヤギや牛じゃないから、
そんなに野菜ばっかじゃ、満足せんもんね。

2004/03/29(月) お休み
本日も体調悪く、熱高し。お休み

2004/03/28(日) お休み
本日体調悪し。お休み

2004/03/27(土) 天使のくれた時間が好きなわし
好きな映画に天使のくれた時間という映画がある。

主人公は、企業乗っ取りの会社の幹部であるエリートで、独身生活を謳歌している。

あることがきっかけで、目を覚ますの別の世界に行ってしまう。
その世界は、かつて捨てた女性と結婚している世界で、子供が2人、妻とタイヤのセールスマンの貧乏生活をしている世界だ。

つまり、過去の自分が選ばなかった世界へ行ってしまうのである。
東京では来週深夜に放送するので、録画でもしてみる価値はある。

ここの読者は恐らく30代が中心であろうから、そういう選択は数限りなくしていることと思う。

過去の自分や、付き合った人に対して想いを抱くのは、単なるノスタルジーに他ならないのだが、考えると不思議なものだ。
一緒に食事をし、一緒に寝て、一緒に歩いていたのに、たいていの場合、5.10年も経てばどこで何しているかもわからない。

70年の人生の中、親族以外で妻や恋人以上に人生を共有するものはいないだろうが、70年の人生に知り合う人数を考えると、その確率というのは、奇跡に近い。

神様が与えてくれた奇跡に気づかず、幸福を無駄遣いしてきた身にすれば、やはり心残りだ。

さて、神様は後何回、私をバッターボックスに上げてくれるのか、神様に知り合いいる方は、聞いておいてください。
ペコリ(o_ _)o))

2004/03/26(金) 先輩・後輩を考えるわし
小学生の頃、中学生と言うのはずいぶんと大人に見えた。
中学時代、甲子園に出ている高校生も同様である。

私は、スポーツと言っても集団競技ではなく、個人競技である格闘技好きであるので、まず何よりも縦社会を叩き込まれる。
学校にしても、決められた一定期間は寮に入らなければならなかった。
1年と言うのは、ほとんど上級生の奴隷である。
掃除洗濯もやるし、軽いいじめやしごきもあった。
かといって、縦社会は批判しないし、どちらかと言うと肯定したい。

近年実社会で会う人たちの中には、まったく人見知りせず、友だちのように話し掛けてくる若者がいる。
親しくするのはかまわないが、敬うという価値観は希薄になってきている。
一般の会社などでも、パソコンを駆使する若者が、マウスの使い方を知らない先輩の愚痴を言っているのを、耳にしたりする。

では、彼らは先輩より優れているかと言えば、そんなこともない。
生活力・総合力では格段に劣る場合が多い。

例えば、特殊なケースに芸能界がある。
個人の能力が特に評価される社会である。
「吉本興業」という会社があるが、知らない人はいないだろう。
この会社では、所属タレントに対して1年間で総額75億円以上のギャランティーを支払っている。
その半分は、トップ30人のタレントのものだ。
つまりトップ30人の給料の総額は、残りの千人以上の芸人と同額なのである。

しかし、当然トップクラスのタレントにも、先輩と言うのは存在する。
先輩全員が売れているわけではない。
漫才と言うのは、普通ワンステージ3000円から5000円程度のギャラであり、普通のバイトとさほど変わらない。
つまり、長い芸歴を持ちながら貧乏な方も多い。

だが、例えばさんまが彼らに対して、「おい」などと言うことはありえないのである。
実力主義の芸能界では、規律・礼儀と言うものを守るために、1日でも先に入門したものが「にいさん・ねえさん」と言われる先輩であり、何億円稼ぐようになっても、逆転することはありえず、先輩がステージに立つときには「勉強させていただきます」と、頭を下げる。

終身雇用が減り、年俸制や出来高制の会社も増えた。
若い管理職も多いと思う。
しかし、吉本のやり方のほうが自然に見えるような思いが、強い。

「先生」とは、「先に生まれ生きている」と書く。
芸人にしても、バラエティーではしゃぐ若手より、寄席を独特の間で笑わす先輩芸人の方が、味があると思うのは、ちょっとしたセンチメンタルだろうか・・・。

2004/03/25(木) 酒場とわし
私は酒が弱い。殆んど飲めない。

特に日本酒やウイスキーのような「わし・・酒だかんね!!」的酒はまず飲めない。
ビールも苦い炭酸飲料という感じだ。

飲めるものといえば、口当たりのいいモスコミュールのようなカクテルだ。うーん、後はなんとかサワーみたいなものくらいだ。

しかし、酒場と言うのは大好きである。
ここで言う酒場とは、学生が大騒ぎする店などは含まない。
昔、新宿の3丁目の小劇場の向かいの地下に好きなお店があり、よく足を運んだ。
そこの親父さんと言うのが面白い人で、いろいろなことを教えてもらったものだ。
モスコミュールも彼に教えてもらったし、いろんな料理の作り方もおそわった。

当時はバブルの香りも残っていた時代だが、その店にはそんな気配もなく、貧乏役者や編集者が新作の舞台の話をしていたり、こっちの話に割り込んでくる奴と討論会のようになっていて、楽しい時間だった。

お金もなく、情報誌に載っているような店にいく金もなかったし、金があっても気後れしていた。当然、金が入ってデートにするにしても、芝居や映画を見て、その店に行っていた。
おぉ!!女連れ!!と驚く親父に紹介して楽しく過ごすが、次にその店に行くときは大抵ふられて一人ぼっちだった。

そんなときに、失恋王といわれるわしは、またしてもふられその店で親父に声をかけられ、つい泣いてしまったことがある。
その親父も好きな人と別れ、自殺しようと思いつめたときに知らない人に声をかけられ、泣いたことがあるという話を店を閉めた後午前4時までしてくれた。
その親父は見た目は熊のような男だったが、いつも無口で厳しい人だったが、優しい目をしており、いい男だった。

先日、新宿にいくことがあり、尋ねてみると店はなくなっていて、代わりに浮ついた装飾の店が入っていた。
友人に聞くと、貧乏経営で店をたたんだと言う。
いい場所だったので、やり方によっては繁盛しただろうに、悪酔いした客は帰らせるような頑固者だったので、時代にはじき出されてしまったのかも知れない。

親父に教わったモスコミュールは、正しくはモスコー・ミュールといい、ライムジュースとジンジャーエールでウオッカを割った酒で、口当たりがいい。

名前の意味は「モスクワの騾馬」と言う意味で、騾馬が転じて、「頑固者・わからずや」と言う意味だ。
新宿の頑固親父は、今でもどこかで、安酒でも出しながら、振られた男でも慰めてるに違いない。

2004/03/24(水) 卒業を迎えた者たちへ
春である。まもなく新社会人が町にあふれる。

短大、大学生で就職難を理由に自殺するものが増えていると言う。
年間300人を超えると言う。

私は、人に言えるほどご立派な人生を過ごしてきてはいない。
高卒であり、すぐに社会に直面してきた。
家庭の経済面では、考えられる最高の環境であったが、自立とともに激変した。
最初は新聞配達店の住み込みであり、部屋は3畳である・・。
正直、部屋に通されたとき「物置」かと思ったほどだ。
それからもいわゆるフリーターとして、7年程過ごした。
建築現場・引越屋・本屋・ビデオ屋・ペンション・・・etc。
全部で40種類ほどのバイトをした。

その後も1年以上、バイトしながら旅行したり、ぶらぶらしていた。

ネクタイを締めるサラリーマンと言うのもやったことはないし、社員になっても、私服で好きな仕事をしていた。
もっとも、その分、いつも貧乏であったが・・・。

学生は、「学びながら生きる」と書く。
これは「知識」を学ぶのではない。
「知恵」を身につけるために学ぶのだ。
使えない知識など、おそるるに足りない。
私の考えでは、学歴など就職の足しにはならない。

以前、音楽製作の事務所に採用され、働いていた。
同時に30人ほど面接を受けていた。
そのとき、隣の年下の新卒らしい男は履歴書に「上智大学」とあり、
私は内心「ああ、こりゃだめだ・・。落とされるわ」と思ったものだ。
みんなが音楽の話をしていて、私は譜面も読めず、話が理解できなかった。
私の番になり、何の話をしたと思いますか・・??

私は音楽の会社で延々と「プロレス」の話をしたのである・・。
世間知らずとは、恐ろしい・・・。

10人ほどが採用され、私もその中に入っていた。
みんな、譜面も読めるし、音楽用語も詳しい中で、私だけ素人であった。
朝は10時に出勤し、レコーディングが始まると家に帰るのは、翌朝の7時ごろと言うタフな職場だった。

1年後、同期は全員退職し、残ったのは私一人である。
心のライバル「上智君」もやめてしまった。
上司に「なんで僕を雇った?」と聴いたことがある。

「それはお前がプロレスの話して、面白かったから。」
「それだけ??」
「そだよ」
「・・・・・・」

ちなみに3年間お世話になり、別の部門へと移ったが、音楽に関してもアレンジャ−の方たちに「あんな感じ」「こんな感じ」で、仕事はどうにかなったものだ。

もちろん、事務職などでは違う結果になったとは思う。
現在、私は一人で仕事をしている。
もし将来誰かを雇うなら、高学歴の者より、いろんなものを見て、いろんなことを感じてきたものを雇いたい。

人生とは全て必然である。
逢うべき人とは逢うべきときに逢う。
仕事もまたしかりだ。
どんな仕事を目指していたとしても、物の売り方・頭の下げ方・自分の経験に基く心のつかみ方と言うのは、必ず役立つ。
経験を超える資質や、学歴などは存在しない。

就職が決まらなくとも、いいチャンスと思い、いろんなものを見て、触って、食べて、感じることだ。

恐らく新卒の方は、私より数段上の知識を持っているに違いなく、頭もいいと思う。
しかし、今回はフリーター上がりのおじさんとして、意見させていただいた。
めげずに頑張っていただきたい!!

2004/03/23(火) ケンタッキーとわし
君、ケンタッキー好き??

わし、ケンタッキー好き!わし、ケンタッキー行く!ケンタッキー喰う!

と、ケンタッキーインディアン化したわしは、営業開始を待って、数年ぶりに近所のケンタッキーへ♪

( ̄□( ̄□( ̄□ ̄;)!!ガーンガーンガーン………
閉店してる・・・なくなってる・・・。

お・おっ・おのれ・・鶏インフルエンザめっ!!怒

あきらめきれず・・たたずむわし・・。

すっと上に伸びる右手!「へい!タクシー!」
運ちゃん「どちらまでですか?」
わし「( ̄_J ̄)ん?ケンタッキー」
運ちゃん「( ̄_J ̄)は?」
わし「だから・・ケンタッキーだって!!」
運ちゃん「・・・・はい・・・」

ケンタッキー到着♪

わし「○○セットくれ!それから魚のやつも」
店員「こちらですか?」
わし「( ̄_J ̄)ん?なんか違う・・・昔のやつないの?」
店員「・・・はい・・・」
わし「( ̄□( ̄□( ̄□ ̄;)!!ガーンガーンガーン………」
店員「では、以上でよろしいですか??」
わし「そしたら・・鶏はモモだけにして!!」
店員「( ̄_J ̄)は?」
わし「胸肉いらん!モモ肉だけにして!!!」
店員「・・・・・・」

数分後・・・・モモ肉だけを持って帰宅。完全勝利!!

向かうところ、敵無しである。

マックではたまねぎ抜きを要求し、
ドトールでは、ホットドックにマヨネーズをかけさせ、
吉野家でもたまねぎを完全に取り除かせ、
ケーキ屋ではドライアイスを大量に入れさせ、
寿司のお持ち帰りではわさびを添える要求し、
ピザ屋にたまねぎ入ってるからと交換させ続けるわしって・・・

さいこーーーー!!!

ちなみに好きな人が作ったものなら、たまねぎのみでも食べます。
(いないけど・・)
トマトは無理!!!

2004/03/22(月) 長距離恋愛について考えてみるわし
いつもチャット絡みの話になってしまうが、眠れなかったので、朝から日記を書いてみようと思う。

先日、「愛する愛されるということ」とか言う部屋でお話をさせていただいた。
部屋に入ると、20代らしき女性が、他の人たちに恋愛について相談していた。
彼女は既婚者であるが、別に恋をしているらしい。
不倫について書くと長くなるので、今回は割愛する。

用は夫の転勤についていくので、彼氏と逢えなくなり、彼の気持ちが離れてしまうのではないかと言うものである。
はっきり言わせていただいて、この相談自体は取るに足りないものであるが、長距離恋愛については考えさせられるものがある。

我々30代にとっては、長距離恋愛と言えばシンデレラエクスプレスであり、新幹線のホームに佇む恋人たちと言うのが思い出される。
しかし、今ではネットも普及し、携帯・メール・チャット・メッセ・IP電話・テレビ電話と、長い距離を縮めてくれる物が普及している。

普通の仕事をしているものにとっては、なかなか恋人と毎日会える物でもないだろうから、あえない日は近距離でも活用していると思う。

しかし、人は嘘をつくものなので、そうそう甘いものではない。
浮気をするものは多い。浮気をしないものもいる。
浮気をしない者のかなりのパーセンテージは、ばれたときに対するペナルティーやリスクを考え、しない人も多いだろう。
絶対にばれないと言う条件が提示されれば、しない数は激減するはずだ。

彼女は近くにいて顔を見てると幸せなのに、離れると不安でたまらないと言っていた。
それは思い違いである。
それは不安なのではなく、ただ「寂しい」だけだ。

今の時代、皆が不安だ不安だ、愛されたい愛して愛してと言う。
これも思い違いだ。
己を現状のままでいて、最高の待遇を求めても、与えられるものではない。
手を差し出せば、与えられるものではない。
愛されたいと言う気持ちが強いのは、愛したいと言う気持ちが弱いからだ。
気持ちはたぶんに理解できるが・・。

夫婦と言うのは、愛を誓っている。
誓いとは、自分の全存在・人生を賭けるものだ。
ゆえにその決意は固く、簡単に揺るぐものではない。
距離などが妨げるものではないと、考えたい。

彼女に投げかけたいことがあった。
が、甘えている彼女には意味もわからないであろうから、言わなかった。
それは彼を失っても、彼に対する想いを貫けるかと言うことである。

究極の遠距離恋愛は、「死」である。
そこには、メールも電話も届かず、届くのは想いだけだ。
死んだものは、思いを残すこと以外に何も与えてはくれない。
相手から与えなれない、一見無益な関係に価値を見い出せというのは、彼女には酷であろう。

死が2人を遠ざけたときに、果たしてどれだけの愛をささげられるか。
続けられる人間が、どれほど残るか・・。
それを考えれば、仮に月に相手がいたとしても、問題ではないと思う。
愛してくれないなら、愛さないと言うなら、それは愛ではない。
ましてや、結婚においての誓いなど単なる「契約」に、なってしまう。

貞操を誓う・愛を誓うなど、言い方はなんでもいい。
約束・誓いというものは、自分の存在を賭けて行うものだ。
ゆえに、その愛を選ぶと言うことは、自分自身が反映される。

相手に愛されなくても愛し続けると言う、ある種の「狂気性」こそが、純粋な愛と考えるのは、飛躍しすぎた考えだろうか。

少なくとも、我々には自分の恋人や伴侶を失っても、思い続けることができるのか、考えることは有意義なものだろう。

2004/03/21(日) もう逢うことのない、愛をくれし君へ
淡き光立つ 俄雨
いとし面影の沈丁花
溢るる涙の蕾から
ひとつ ひとつ香り始める
それは それは 空を越えて
やがて やがて 迎えに来る
春よ 遠き春よ 瞼閉じればそこに
愛をくれし君の なつかしき声がする

君に預けし 我が心は
今でも返事を待っています
どれほど月日が流れても
ずっと ずっと待っています
それは それは 明日を越えて
いつか いつか きっと届く
春よ まだ見ぬ春 迷い立ち止まるとき
夢をくれし君の 眼差しが肩を抱く

夢よ 浅き夢よ 私はここにいます
君を想いながら ひとり歩いています
流るる雨のごとく 流るる花のごとく

春よ 遠き春よ 瞼閉じればそこに
愛をくれし君の なつかしき声がする
春よ まだ見ぬ春 迷い立ち止まるとき
夢をくれし君の 眼差しが肩を抱く



などと、柄にもなく感傷にひたるわしである。
まぁ、たまには許せ!読者諸君!
┌( ̄0 ̄)┐ ワーッハッハッハッ・・・・

2004/03/20(土) はっとしたわし
昨日、ひさびさに電車に乗った。
普段徒歩か、タクシーなので、ちと新鮮であった。

駅の階段を上っていて、60歳くらいのおばあさんが重そうなバッグを持っていたので、上まで運んだ。
「じゃ」と言って立ち去ろうとすると、「ありがとうございました」と深々とお辞儀をしていただいた。
私は別に優しい人間ではないので、親しい人間でない限り、若い女性でも、お爺さんでも内心「自分でやりなさい」と思うのだが、母親に近いおばあさんにはちっとだけ優しくするようにしている。

が、そんな風にお礼を言われるは初めてだった。
大抵は会釈や、「どうも」程度である。

客商売を2年ほどやっていた経験があるので、「ありがとう」という言葉のうれしさはよく知っている。
お店で食事をすると、「ありがとう」とお店の人に声をかけるようにもしている。

それど、街中で知らない人にきちんとした「ありがとう」と言われるのは、稀有である。

なんというか、ちょっと感動した。

「ありがとう」「ごめんなさい」「おはよう」「大好き」

きちんと言葉にすべき言葉はたくさんあり、みんな知っている。
けれど、気持ちはわかっているはずとお互いに思い、きちんと口にすることは意外と少ない。

言葉とは、相手に伝えてこそのものであり、伝えなければただの想いだ。

おばあさんを見習い、きちんとしようと少しだけ姿勢を正す春の日のわしであった。

2004/03/19(金) ドラマを見たわし 2
引き続き書く。

ドラマの主人公は、癌を患い、肺と脳に転移し、死んでいく。

昨年、私も癌を患った。今は元気にしているが、再発の危険はあると思う。主人公と同じく、肺・脳への転移が懸念される癌だったので、人事とは思えなかった。

私の親族は癌で亡くなったものが多い。
死に際も見た。
私なら考えるにチューブだらけの1年より、今までどおりの3ヶ月を選びたいと思う。

親族にも再発したら治療は拒否することは告げてある。

ただ悲しいかな。ドラマと違い、私が死ぬときは、兄弟程度がまわりにいてくれるくらいだろう。
昨年、闘病中にいろいろ考えた。
かつての恋人に頼めば、来てくれるかとか・・。
そういう他愛もないことである。

それは、情であり、感傷であることを、骨身にしみて知っていながら、考えるとなかなか耐えられないものである。

そういえば昨年の「恋文」というドラマも、そういう物語だった。

実際には、来てくれないだろうなぁ。

2004/03/18(木) ドラマを見たわし
半年間、見続けた「白い巨塔」が終わった。
権勢欲に取り付かれた医師が最後になくなった。
男性の目から見て、狂ったようにうえを目指す医師と、医師としての道を模索する医師。2人とも、全部は肯定できず、全部を否定もできないキャラクターであった。
ほとんどの人々は、その中間を生きているのだろうと思う。

ある女性の知人にこういう人がいる。
結婚した当初は、夫は給料20万程度の安サラリーマンで、生活も苦しかったが、内助の功でよく助けていた。
夫に奮起を促し、うまく誘導していて、10年も経つ頃には、会社をいくつか経営し都内に驚くほど広い家も建てた。
その夫も私の友人であるのだが、見ていて確かに彼は変わり、ある種のパワーゲームのとりこと言うか、かつての面影は減ってしまった。

悪いことではない。
このご時世に、数億の家を建て、家族を困らせることもない。
同じ立場になりたい人は、腐るほどいるはずだ・・。

しかし、その妻が言うのには経済的に裕福でも、一緒に過ごす時間もなく、家にいてもずっと仕事をしていて、息がつまりそうという。

わたしは、さして優しくもないので「望んだことの結果」と言い切った。

夫も、「妻が言ったから、必死にやったんだ。社員の家族もいるし、今更止められない」と言っていた。

友人の言うとおりであり、理解できる。
ただ成功を祝ってやりたい反面、遠くに行ってしまったようで寂しくもある。

そのような成功した家族と、夫の稼ぎを愚痴っている家族では、一体どちらが幸せなのだろうか・・。

金で問題の90パーは解決できるが、残りの10パーは無理である。
難しい問題だ。


先程のドラマの主人公が死を認識した際にこう言う。
「無念だ」
死ぬことに対してではなく、仕事を成し遂げられなかったことにいったものと、私は認識している。

少なくとも死を目前にして、無念と言えるほどの仕事に出会えたことに対しては、幸せな男だったと思う。

2004/03/17(水) しつけを語るわし
ちょっと、怒っているわしである・・・。
今日、スーパーに行ったのであるが、おばあさんと30くらいの母親と、6歳から9歳程度の子供が4人いた。
レジの近くで、子供らとおばあさんが、マラカスの形のケースに入ったお菓子を、シャカシャカ振ってふざけており、店員や客も非常に迷惑そうであり、不愉快であった。

おばあさんに注意したところ、やめさせようとしていたが、子供たちは一向にやめず、マラカスを持って踊っている。
母親らしき人物に注意したところ、舌打ちをして子供にこう言い放った。

「怖いおじさんが怒るからやめなさい」

子供がはしゃぐのは仕方ない。注意なりしかるなりすればいいのである。

しかし、この母親は何なのか・・・・。
怒られるからしてはいけないのではなく、人の迷惑になるからやってはいけないのに、それすら理解していない・・。

近年、子供の万引きに呼びつけられた母親が、子供に「おこずかいあげなくて、ごめんね」と誤り、店員には「かね払うからいいでしょう」と言うようなケースが増えていると言う。

一体何なのだろうか・・・。

以前、万引きした中学生が警察官から逃亡し、踏み切りに進入して死亡し、万引きされた書店のオーナーが人殺し呼ばわりされたことがあった。

願わくば、まともな教育やしつけを受けていない親の下で育った子供たちが、その中学生のような犯罪者にならなぃように願うばかりである。

2004/03/16(火) てぶらなわし
大量の荷物を持ち運んでいる時などは、「手ぶらだったらどんなに楽チンだろうなあ。」
なんて思うものですが、いざ手ぶらで歩いてみると、そのぎこちなさ、バランスの悪さに我ながら驚いてしまいます。

それゆえ私は、大抵の場合はたとえ中身は空っぽでも、何かしらカバンの類を持ち歩いているのです。背負っている場合もありますが、片手は必ず肩掛けのベルトを握っていて、両手が遊んでいる事がないようにしています。

とにかく私は『手ぶら』というのが大の苦手で、手に何か持っていないと、何かこう身体全体のバランスが悪いというか、動きがどことなくギクシャクしてしまってどうにもならないのです。

歩くときなども、「この手はグーにすべきかパーにすべきか?」なんて考えて、妙に神経が手の方にいってしまうし、腕の振り方にしても、あまりに元気よく振るのも恥ずかしいし、かといって全然振らないのはぎこちないし、中途半端に振ると何だかダラダラ歩いてるように見えるんじゃないかとか、いろいろ考えてしまいます。

結局、片手をポケットに突っ込むか、ベルトやベルト通しに親指を引っ掛けて歩いたりするのですが、不思議な事にこうして片手が塞がるだけで妙に身体全体が安定してきます。

これって私だけなのでしょうか? 

どうも人間という奴は、みな両手が遊んでいる状態が苦手なのではないかと思うのですが。立っている時に、両手をダランと下げている人はほとんど見た事なくて、腕組みをしたり、腰に当てたり、前で組んだり、後ろで組んだり、頭を掻いたり、お尻を掻いたり、と必ず何か手を塞ぐ所作をしています。

大体において、手が暇な動物なんて人間だけで、他はみな身体を支えるために両手(足ですが)を使っているのです。二本足で立ちあがった瞬間から、人間はこの『手持ちぶさた』と闘ってきたのではないでしょうか。ちょっと大げさ?

さてさて、みなさんはいかがでしょうか。手ぶらで歩くの平気ですか?

2004/03/15(月) ホメオスタシスとわし
”ホメオスタシス(homeostasis)”なんて舌を噛んでしまいそうな言葉がありますが、日本語で言うなら”恒常性”という事になります。
本来は、生体が内外の環境変化に関係なく形態的・生理的性質を一定に保とうとする性質の事で、意思とは関係なく自律的に行われている身体のしくみの一つです。体温や血糖値が調節されてるのもこいつのおかげです。

さて、本題のリスク・ホメオスタシス理論ですが、これは、リスクというものに関してホメオスタシス(恒常性)が働いて、その結果、総合的なリスク量は変化しないという理論です。つまり、人間というやつは意識するしないに関係なく、リスクの変化に応じて自分の行動を適応させるため、結果としてリスクの大きさ(のトータル量)は変わらないという事です。

例えば、シートベルトをして車を運転した場合と、しないで運転した場合の死亡事故の起こる確率がどうなるか。確かにぶつかった時に死ぬ確率はシートベルトの着用によって減るのは間違いありませんが、ぶつかる確率はシートベルトの着用によって高くなるという事です。

心の奥底にある「ぶつかっても大丈夫」という安心感が、ぶつかり易い運転へと人を誘導しているとでも言いましょうか。これにエアバッグつけたりして安全装備を充実すればするほど、どんどんぶつかり易い運転になるわけで、結果として死亡事故件数はあまり変わらないという寂しい結果になるというわけです。

それどころか、事故件数そのものは増えるわけで、当然その中には歩行者をはねてしまうものも含まれているのですから、シートベルトもエアバッグも装備していない歩行者の死亡事故は増えたりなんかして。恐ろしや恐ろしや・・・・。

そうしてみると、エアバッグなんてものが装備されてる事を知らないとうのが一番いいという事になります。

「エアバッグ標準装備!」なんて自慢げに売っちゃいけないんですね。こっそりエアバッグを忍ばせておきながら「あ、エアバッグなんて付いてませんからね。気を付けて運転して下さいよ、お客さん。」なあんて知らん顔して売らなくちゃいけないってもんです。できれば、ぶつかったら前から横から槍かなんか出てきて串刺しにされるってのがいいかもしれません。「事故ったら確実に死ぬ車」・・・。

これなら誰も事故なんて起こさないでしょう。これがリスク・ホメオスタシス理論なんですね。




ほんまかいな・・・・。

2004/03/14(日) カレーパンとわし
誰が何と言おうとパンの王様はカレーパンなのである。
ボクシングで言えばWBAとWBCの統一世界ヘビー級チャンピオン、テニスならWTAランキング1位でしかもグランドスラム達成、
サッカーならワールドカップ優勝、野球ならワールドシリーズ覇者、
相撲なら東の正横綱で6場所連続全勝優勝、
プロレスならカール・ゴッチとルー・テーズの合体、ローラーゲームなら東京ボンバーズの小泉くん(←知ってる?^^;)、とまあそれくらい堂々たる存在なのであると僕は確信している次第であります。つまりその要するに・・・カレーパンが好きなのである、わし。

しかし、一つだけ気になる事があるのです。それは・・・そう、あのやたら巨大な『何もない空間』なのである。
何故かカレーパンのカレーは少なくて、中にポッカリとあまりに見事な空間が口を開けているのです。かじった時に一度その口を閉じるものの、まるで形状記憶合金のように次第にまたポッカリと口を開くのです。あれを見るたびに私は、「カレーパンて嫌い・・・。(ーー;)」と思うのですが、ついついまた食べてしまうのです。

そもそも私は、未だかつてカレーがパンパンに詰まったカレーパンというものを見た事がありません。普通は中の空間のせいぜい30%もカレーが入っていればいい方で、ひどいのなんか申し訳程度に敷いてあるだけみたいなのもあったりします。何故なのでしょうか? 「カレーをパンパンに詰めてはいかん」という、何か侵しがたい業界の掟でもあるのかと勘ぐりたくなってくるぐらいです。

更に不思議なのは、これに対して誰も文句を言わないという事です。例えばタイ焼きの場合を思い起こしてみて下さい。あんなにパンパンにあんこが入っているにもかかわらず、たかだか尻尾の先っぽにあんこが入っていないというだけで、まるで詐欺にでもあったかのように大騒ぎをするではありませんか。何ゆえカレーパンはかくも保護されているのでしょうか。一度でいいからかじった瞬間に口の端からカレーがむにゅっとあふれ出るようなカレーパンを食べてみたいと思うのですが、これは無理なのだろうか・・・・。

2004/03/13(土) 科学とは何か考えるわし
理系か、文系かとたずねられれば、私は文系である。
科学や、物理のような答えがひとつしかないものよりも、解釈の幾つもあるような答えのあるようなものが好きだ。

木星にエウロパという衛星がある。
恐らく海が存在し、生命が存在する可能性があるといわれている。
その星にDNAを持っていったら「どーなるだろう」と話したことがある。
そうしたら、人間が神様になるかなぁーと話していたのである。

そこに理系の友人が来て、話に加わった。
彼の答えは「神なんて存在しないし、考えても意味ない」と言い切ったのである。

そこに私は引っかかったのであるが、科学というのはあまりにも巨大な分野であるので、そこに携わる人間は専門的になりすぎて、本来の目的を忘れているような気がしてならない。
本来、宗教・科学・哲学は一体で、「われわれは一体何者なのか」という疑問に挑戦していたはずである。
しかし、科学の専門家は本来の目的を忘れ、目の前に熱中しているように思える。

もちろん大切な研究などであろうが、そもそも何のための学問なのかと疑問なこのごろである。

2004/03/12(金) ストーカーについて考えるわし
はじめに言っておくが、ストーカーは悪いことである。
これは紛れも無いことである。
が、ちと思うことがあるので、書いてみたいと思う。

たしか先月だったが、初老の男が自分の小指を切り落とし、好きな女性に送りつけ、警察に逮捕された。
犯罪である。
ニュースでも、不可解で猟奇的だというようなことを言っていた。
私は彼を知らないので、その意図はわからない。
が、しかしである。
以前の日本には、そういう風習があった。

遊女と呼ばれる多数の男性を相手にすることを生業としていた人々が、自分の愛を伝え、証明するために、自らの小指を切り落とし、ほれた男に送ったのである。
自分の体を傷つけることを愛の証明としたのである。
現代でも、指こそ切らないが、体に相手の名前をタトゥーとして、刻む人は意外と多い。

以前では、風習としていたものが、現在は違法と呼ばれる。
送られた人のことを考えれば、やむをえないとは思う。

たとえば、昔の歌で「まちぶせ」という歌があった。
今聞くと、ストーカーチックな歌であるが、内容は恋心を抑えられない
女性の歌だ。
一昔前なら、好きな人の家の前まで行き、その窓を見上げていたなんて話はよく聴いたものだが、今ではやはり「きもい」「うざい」などと言われるのだろう。

どこで、変わってしまったのだろうか・・・。

以前、男性を付回す女性のストーカーのドキュメントを見た。探偵なる男が、その女性を男性に合わせ、説得していた。女性は泣き叫び、「どうしてわかってくれないの!!」と慟哭していた。もちろん、男性にとっては、迷惑千万であり、悪いことなのだが・・。
見ていたら、思わず私もおいおいと泣いてしまった。

もちろん、感情移入によって泣いたのであり、その行為を正当化はしないし、したくわない。が、泣いてしまったのである。

このニュアンスが、皆さんに伝わるだろうか・・・。

愛とは、もっとも崇高な感情にして、もっとも始末に終えないものである。

さて、あなたの恋人は、その愛を伝えるためなら、自らの指をあなたに差し出せる人だろうか。

2004/03/11(木) 「恋人たちの予感」について語るわし
現在、11日の1時半です・・。
眠れないので、チャンネルを変えたら「恋人たちの予感」をやっている。今日は映画を見ながらかいてます。

この映画は、私が20の頃だからもう早いもので15年前になります。
メグ・ライアンの出世作で、名作です。
当時見ていた頃のことはよく覚えていて、その頃の私は銀座で新聞配達していました。7万円ほどの給料の中でやりくりして、映画を見るのが楽しみで、毎週有楽町のマリオンで映画を見ていました。

この映画は、男女の友情と愛情を描いていますが、若かりし頃の私には今ひとつピンとこなかったのですが、今見るとなんとなく印象が変わるものです。
若い男性にとって、魅力的な女性と言うのは、当然彼女にしたいなぁとか思ったり、さもすると「あんなことして、こんなことして、えぇぇ、そんなことまで・・・」とか思いがちなものです。

あれから15年経って考えてみると、若干変わりました。

最近になって、凄く魅力的な女性であっても、そういう気持ちにならない人と言うのが出てきました。特に仕事など出会う凄く若い人などは、男の目と言うより、父親の目になってみているときもあり、「あぁ、見守るとは、こういう気持ちかぁぁ」等と気がついたりもします。

男女の友情・・・。永遠のテーマですね。

以前は「ないね」と言い切っていましたが、最近は「どだろ」と思うようになりました。例えば、別れた恋人にしても、なかなか友だちとしては成立しません。でも、考えてみると、別れ際が修羅場になったとしても、なんというか一種の戦友のような関係も成り立つような気もします。
φ( ̄_ ̄;) うーん

ただ、男性には下心(恋心)と言うものがあるので、女性からは友達と思われていても、男性にしてみればカップルになりたかったりと、なかなか難しいものですね。

私の持論で「結婚70歳説」と言うのがあるんですが、男性のそういうあぶらっけが無くなった老人になったら、本当の純粋な愛情や友情と言うものが、育めるような気がします。

散歩しているお年よりのカップルのお顔を見ると、そんな気がしてなりません。

15年でこれだけ考え方が変わったのですから、後30年たったらどう変わるんでしょうか。
皆さんが、30年後に素敵な散歩ができるようにお祈りしつつ、今日はおやすみなさい。( ̄_J ̄)ノ▽"フリフリ

ところで、この映画のメグ・ライアンはチャーミングだなぁぁぁ。

3月絵日記の続き


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