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2004/04/17(土)
格闘技とわし
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わしは格闘技ファンである。しかも・・重度である・・。
日本は長く戦国時代をはじめとする戦いの時代をすごしているので、 世界的に見ても格闘技が発達している。
空手・柔道・柔術・剣術・合気道・相撲・少林寺拳法・骨道等の古武道等があり、近代になって、ボクシング・レスリング・ムエタイ・サンボなどの競技人口も増え、一層の格闘技熱である。
ホームページの記事にも書いたが、武術の「武」と言う文字は、 矛(槍のような武器)を止めると言う意味である。
つまり、武術とは弱きものが無手で、武器を持ち襲ってくるものを止めるための技術である。
しかし、明治時代以降、戦いの精神性を重視するあまり、技術性が失われた。勿論、「礼に始まり、礼に終わる」と言うのは、大変大事なのだが、基本的に格闘技は暴力であり、素手で人を傷つけるための効率的な技術のことである。 武士が鎧を着ていた頃の細かい技術は、暗号のような口伝書の為になくしてしまったのである。
わしが思うに、格闘技は「術」であるべきであり、「道」であるべきではない。
暴力を抑え連れるためには、更なる圧倒的暴力しかない。 極論的かもしれないが、強さとは「己の意思をなんとしてでも押し通すわがままさ」であると思う。
意思を貫徹するためには、まず強さが必要なのである。 強くないスーパーマンは、ただの人間なのである。
国際問題を見るたびに、「平和平和」と叫び、軍隊を否定する者たちがいる。 しかしながら、彼らを含め我々日本人は、安保の傘の下で、「力による淘汰」を経験していない。 だからこその「奇麗事」なのだ。
彼らは、ヤクザに向かって「話し合いましょう」と微笑みかけているようなものである。 ヤクザに対抗するためには、彼ら以上の権力者か、彼ら以上の暴力を持って、制するしかないのである。 話し合いで解決していたら、歌舞伎町にヤクザはいないだろう・・。
話し合いは大切だが、それはいわば「道」の精神であり、武力を打ち破る「術」を持たずしては、なんら意味を持たない・・。
皮肉な言い方だが、我々は「アメリカ組系日本組」というヤクザなのである。この自覚は必要だ。 武器を捨て、全てを失う覚悟があるのなら、非武装もよいだろう。
ちなみに親組織に破門状を出された無頼の極道ほど、目の当てられないものはない・・。
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