|
2004/05/03(月)
わしの好きなボクサー
|
|
|
前述の通り、わしは格闘技がすきである。 ボクシングも最近は見ることも減ってしまったが、好きである。 ボクシングの黄金時代は昭和であり、わしが見ていただけでも、具志堅・浜田・鬼塚・ユーリ・川島・辰吉など、キラ星のごとくである。
しかし、わしがリアルタイムで見ていなかったボクサーでたまらなく好きなボクサーがいる。
彼は昭和15年に仙台の農村で生まれ育った。 優しい人柄で、弁当を持ってこれない友人の分まで握り飯を作って持っていくような男であった。 子供時代に友人と遊んでいたときに、ドロが目に入り、かといって気を使うあまり親にも言い出せずに、左目を失明する。
高校時代にボクシングをはじめ、県大会を制覇するが、片目のハンディは大きくボクシングを断念し、上京する。
上京後、笹崎ボクシングジムに入り、再びボクシングをはじめるが、ボクシングスタイルは以前と一変する。 ボクシングの理想は「蝶のように舞い、蜂の様に刺す」といわれるように、ダメージを受けず相手を倒すことにある。
しかし、プロのリングで彼は両手のガードを下げ、相手のパンチを敢えて受け続けた。 それは左目が見えないため、アウトボクシングが苦手で接近戦を挑むための方法である。 対戦相手はここぞとばかりに打ち込むが、結局打ちつかれ、彼のパンチを受け、敗北を喫した。 その豪快で特異なファイトスタイルは人気となる。
のちに日本フライ級のベルトを手にするが、同じジムにファイティング原だが所属しており、当時の世界フライ級のベルトは原田のものだった。彼と原田の家族は親密な関係でもあり、同じジムと言うこともあり、彼は世界戦を経験することなく、グローブを壁に掛ける。
引退後、かつてあこがれていた芸能界に入るため、コメディアンの由利徹に弟子入りをする。 しかし、現役時代にあまりにパンチを受け続けたために、脳に障害が発生する。 舌が回らず、言葉が話せなくなり、台詞を覚えることも出来ず、横になれば小便を垂れ流した。
ある日、突然彼は由利徹のもとを去り、1年間行方不明になる。 家族同然だった原田の家族とも音信不通である。
しかし、チャンプに上り詰めただけの男であり、1年後に師匠の下に帰ったときには、全ての障害を克服して、常人と変わらない状態に回復している。
由利が言うには「オレたちは芸をしなきゃ客を笑わせることはできやしない。でも彼はそこに出てくるだけで客を笑わせる。これにはかなわん、どっちが師匠だかわかりゃあしない」というほどの芸風で、テレビや舞台で人気者となる。
私は子供の頃、親父に連れられ入った新宿の店で1度だけ彼を見たことがある。酒に酔いつぶれ、だらしなく眠りこけていた。 彼はそのキャラクターと酒のせいで、何度となく筋者に引きずり出されたらしいが、10人近い相手を殆んど一瞬で倒し、店に戻ってはまた酒を飲み続けたという。
彼は新宿・浅草の飲み屋で飲み続け、飲み代は支払わなかったといわれている。 飲み屋の主人たちが受け取らなかったといわれている。 一般に水商売の人間たちと言うのは、金に敏いものだが、彼は別格の存在だったらしい。
おそらくであるが、彼のもつ、なんというか地獄を見てきた男のやさしさにほれたのではないかと思う。
その後、彼は他界する。
ボクシングを描いた映画に「明日のジョー」という名作がある。 主人公の矢吹丈はノーガードでパンチを受け続け、相手を倒す。 ライバルのホセ・メンドーサと世界戦を戦うときには、彼と同じく視力も失っている。 風貌こそ違うが、モデルは彼ではないかと噂されるほど、似ている。
彼は昭和を代表するボクサーである。 現役時代、彼にダウン経験は無い。
私が最も愛するボクサーである。 心より尊敬する。
彼の名前は斎藤清作。 世間で知られている名は「たこ八郎」である。
|
|
|
|