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2005/01/15(土)
救い
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前にも書いたが、最近某女性占い師の番組が人気である。 なんでもズバリと言って解決し、意見を聞き入れないものは地獄に落とすと言う・・。
占いとは、何百年何千年のデータの蓄積である。 生命線が長いと長生きすることが多い。 部屋に黄色い花を置くと、経済的に成功することが多い。 そういった些細なデータの積み重ねなのである。 ただそれだけのことなのである・・。
本来、人が頭をたれて人の意見を乞うのは、人生や想いに悩み救いを求める時だろう。
辛らつな言葉が必要なときもあるとは思う。 しかし、救いを必要をしている人たちが本当に必要としているのは、 本心から話を聴き、ともに涙を流してくれる存在だ。
私が心から尊敬する女性がいる。 瀬戸内寂聴さんである。 彼女の説法を聞くと、心が洗われ目の前にパッと青空が広がる気がする。
波乱万丈な一生を送った女性だが、辛酸を嘗め尽くし涙を流し続けた人特有の優しさを感じる。 私は別に仏教徒ではないし、尊敬するからと言って帰依しようとも思わないが、 彼女の話の中には間違いなく「救い」という名の仏がいる。
京都にある彼女の住まい、寂庵には毎日のように全国から悩み苦しむ人たちが訪れると言う。
夫や妻を失った苦しみに耐えられない人。 身内の借金に苦しむ人。 人生を見失ってしまった人達・・。
彼女に出来ることは、「あーしなさい、こーしなさい」と言うことではない。 ただひたすらに相手の身になり、話を聴き、共に涙を流すことだ。 人というものは、誰かに理解してもらいたい。 そのために彼女は話を聴き続ける。
寂庵は訪れた方たちのお布施だけで運営されている。 常に赤字だと言うが、いつも笑顔で人を迎え入れる。 どこかの誰かのようにキンキンギラギラに飾り立てることも無く、 言葉の暴力で方向を指し示すこともしない。
ただ共に思いを共有しようとするだけだ。
挫折を味わい、非難を受け続け、失意の果てに手に入れる優しさ。
私はああいう人になりたい。
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