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2005/01/26(水)
死に様
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10年以上前、まだ世界が冷戦によって二分されていた頃、 ある日本人作家がこう言った。
「私は日本の航空会社の旅客機には乗らない。 可能な限り、アメリカ・西ドイツの航空会社を選ぶ」
何故か?
テロなどに決して屈しないからである。 犠牲は覚悟で、交渉せず、必ず犠牲以上の報復を与える。 これが理由だ。
自国民が人質になれば、例えそれ以上の犠牲を発生しようとも救出に向かう。 どんなに犠牲が増えても、仲間の死体は回収する。
日本のように「人命は地球より重い」等といったセンチメンタリズムの入る隙間はない。
そうして日本が開放した左翼運動家は、北朝鮮の庇護のもと、日本人を拉致。 今だ判明していない被害者も恐らく多数いるだろう。
国とは、同地域にいる人間の生活を円滑に運ぶための組織だ。 いわば家族である。 司法・行政はいわばおとうちゃん。
現在、自衛隊や憲法についての議論が盛んである。 そういう議論について考える時、どちらがいいかと考える。
どんな批判を受けようとも家族を守る父ちゃんと、 喧嘩になるくらいならと敵の御機嫌とる父ちゃん。
私が父親を選べるなら、女房子供の為に命を張る父親を選ぶ。
「また極端なこと言い出した・・」と叱られそうだが、 敵と刺し違えて女房子供が守れるのなら、たとえ死のうと安いものだ。
もちろん個人の家族と、外交のレベルの差はあるにせよ、 根源的なものは同じだと思っている。
父ちゃんが家族を守ろうとする時、家族も協力する。 母ちゃんはご飯を作り、子供は応援する。 それでこそ、父ちゃんたちは頑張るのだ。
どこかの誰かのように、父ちゃんをこき下ろしながら、 外の敵と文通している連中は、家の外に出て自立していただきたいものである。
父ちゃんの言うことは聞かないし、邪魔ばかりしていながら、 働きもせず、要求ばかりすることを世間では「寄生」という。
人間は皆いつかは死ぬ。 いつ死ぬかは決められないが、死に様は選ぶことが出来る。 死に様と言うのは、生き様そのものだ。
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