水野智苗(みずのちなえ)のケータイ写真日記です。
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2003/12/09(火) ドクロマークの日記で思ったこと(1)
もう1ヶ月以上も経ったので今さらという気もしないではないですが
11/4の日記に対する反響のような書き込みが掲示板に少しありまして
そこでいろいろ考えたことを、なかなか書けずにいました。
まだ考えがまとまったとはいえませんが、そろそろ書いておきたいと思います。

反響は同じスレッドに並びましたが、書かれた内容というか論点は2つあったように思いました。
ひとつは「自殺」という行為や「死」に対する考え方について。
ひとつは「自殺」というところに追いつめられていく心理的な問題について。
……と簡単にくくってしまうと、書きこんで下さったご本人はご不満かも知れませんが
とりあえず日記を書き進めるためにそういうふうにまとめさせてください。

で、いっぺんに書くとやたら長くなってしまいそうなので
今日はまず「自殺」と「死」についての考え方から書いてみようと思います。

掲示板常連でのわたしと同年代の「とらぞう」さんの書き込み。
自殺願望はなかったが、やりたいことをやってきたのだからいつ死んでもいい、と思っていた。
だが、実際に死が迫ってくる経験をして、「まだ死ねない」と思った。
その実感から、彼はこんなふうに書いています。

【「死」の扉というものはとても簡単なことで開きます。
 簡単に開くものなんだから、自分から開こうとするのは俺は人として最低の行いだと思います。
 「死にたい」なんて思うことは本当に死を見たことがないから言えるんだと思う。

 「死」は確かに崇高なもの、だがそれは自然の摂理、神の導きによって迎えるものだから美しいのであって、
 それを自ら強引に行うことは、醜さの極みである。】

ここまでの「とらぞう」さんの考え方には、ほぼ全面的にわたしも賛成です。

わたしは、彼のように自分が死に直面する経験をしたわけではありません。
けれども高校2年の時に義母を亡くして以来、一年おきに喪中になるという感じで
祖母・祖父・実父を失い、さらにその翌年、舅を亡くしました。

祖父母については、年齢が年齢であったし入院生活が続いていたので
あるていど家族のほうにも覚悟をする時間があったわけですが
まだ四十代前半であった義母、五十代前半であった実父と舅のときには
とてもそういうわけにはいきませんでした。

義母はいわゆるキャリアウーマンで父と結婚してからも仕事を続けていましたから
年に2回の職場の健康診断はきちんと受けていたわけですが、
それにもかかわらず胃癌が見つかったときにはすでに全身に転移していて
若いからこそでしょうが、どうにもならないところまで進行してしまっていたそうです。
そしてわたしは、ひとがみるみるうちに痩せ衰えて亡くなるのを、目の当たりにしました。

実父と舅のときは、もっと突然です。
ふたりとも五十代前半でしたから健康診断で注意を促される項目の一つや二つはあったようですが
それでもとくに持病があったわけではありません。
それなのにふたりとも、ある日突然、脳の血管が切れて亡くなってしまいました。
実父はICUに1週間いましたからなんとか姉弟全員が死に目にあえましたが
舅の場合は真っ先に駆けつけた姑も間に合わなかったそうです。

自分が死にそうになる経験をしていなくても、身近な人の死に接していれば、
あるいは例えペットであってもその死をきちんと看取ったりしていれば
「死」というものがどういうものか、おぼろげながらわかってくることでしょう。
命の炎というのは思いがけないほど簡単に消えてしまうのだということや、
残された者がどんな思いを味わうかということが。

わたしは、義母の死以来、理性を保てる状態のときに本気で自殺を考えたことはありません。

近頃の若い(幼い)世代に簡単に死を選ぶ人が増えている原因のひとつは
核家族化で祖父母など身近な人の死を目の当たりにする機会が少ないこと、
集合住宅住まいでペットの死を看取る機会が少ないこと、
なども、少しは関係しているのかもしれないなと思います。
(「殺してみたかった」という理由で、動物や、ときに人間を
 本当に殺してしまうという少年犯罪が起こるのも同じことでしょうか。)

ともかく、あるていど大人の分別を持って、理性的な判断ができる状態で、
「自殺が美しい」などと考える人はほとんどいないのではないでしょうか。
問題なのは、理性的な判断が働かない状態に追い込まれ、「死ぬしかない」と
思い詰めてしまう人が決して少なくない数いる、ということだと思うのです。

だから、「とらぞう」さんの書き込みの次の部分には、わたしは賛成できません。

【あと、今自殺を考えている人に言いたい。

 「人生嘗めてんじゃねーよ。」】
【それでも死にたいってんなら止めやしない。
 だけど、それならひっそりと、社会に知られずにやるべし。
 遺書など書いて、下手に社会に繋がりを残していくなんざ持ってのほかだ。】

人生をなめてなどいないからこそ、真剣に思い詰める人がいるのです。
自分がそこで生きているのだということに気づいてほしくて、
つまり社会(多くの場合それは最小単位である「家族」ですが)とつながりたいからこそ
真剣に自殺を考えてしまう人がいるのです。
理性や分別が育つまえに、死を選ばなければならないと刷り込まれてしまった人もいるのです。
そういう人を不用意に追いつめないでほしいと思うのはわたしの勝手な願望かも知れませんが。

ということで、自殺へと追いつめられてしまう心理については
「ドクロマークの日記で思ったこと(2)」に続きます。
ただし、それをあした書くかどうかはわかりません。
また、たぶん(2)に関しては、まったく一般的ではない方向に転ぶ危険性が高いです。
というわけのわからない予告を残して、本日はここまで。


昨日12/08のカウントは32でした(^-^)/


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