水野智苗(みずのちなえ)のケータイ写真日記です。
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2004/08/08(日) ドクロマークの日記で思ったこと(2)
「(2)って、(1)はどこにある!?」と思われたあなた、あなたは何も悪くありません。
本人も長いこと忘れていたので、今あわてて探しました。(1)は、2003/12/09です(苦笑)

(中略)

で、(1)を書いたあと9ヶ月も、放置してしまったわけですが
そろそろいい加減に(2)を書いて、完結させておこうかな〜と……。
といっても、結局まとまりのある文章は書けないかも知れません。
ある意味、問題提起だけで終わってしまうかも知れないんですけど。
これから書くことは、例のドクロマークの日記の事件とはなんの関係もないし
> 「自殺」というところに追いつめられていく心理的な問題について
なんていう一般論でもなく極めて個人的な話なんですが、とりあえず書いてみますね。

わたしが本気で自分を殺そうと思って自殺を図ったのって、実は幼稚園児の頃なんです。
幼稚園時代に引っ越しをしているんですが、引っ越し前の家だったはずなので
3年保育の年少組か年中組の途中までのできごと、ということになります。
つまり、3歳から5歳くらいまでのあいだ。

関係者存命中につき詳しいことはあんまり書けないし書きたくもありませんが
つまりその当時のわたしは、「自分は消えなければならない」と信じていたんですね。
逆に言えば、自分が両親(とくに母親)に愛されていることを信じられなかったというか。
わたしは両親を愛しているけれど両親はわたしを嫌っている、と思いこんでしまった。
それが事実かどうかはこのさい関係がなくて、そう思いこんでしまったことに意味があるわけで。
なんとか親に愛されたいと思っていろいろと努力はしてみても実らないと絶望したとき
わたしは、自分が親に対してできる唯一の贈り物は自分を消すことだ、と思ってしまった。

4歳か5歳の子どものことなので、一番身近な刃物は包丁ではなくハサミです。
今は、そういえばいつの間にか治ってしまったんですけど
当時わたしはいわゆる「デベソ」というやつで、母はそれをとても気にしていました。
だからわたしは、大好きな母親が毎日のように使っている裁縫用の大きな裁ちバサミで
母が嫌っているそのヘソを切り落として、そこからおなかを切り裂いて死のうと思ったんですね。
ひとりで留守番をしているようなときに実行すれば、見つかるまでに時間がかかって
そのあいだにたくさん血が流れれば死ねる、というくらいの中途半端な知恵はあったわけです。

実際に家族の留守を狙って、少なくとも片手に余るくらいの回数は試してみたんですが
そこはなにせ幼稚園児のこと、実際に体の一部をハサミで切り落とすほどの力もないし
それよりなによりそれほどの痛みに耐えられるはずもなくて。
だから実際には、ちょっと血がにじむくらいの傷を付けるのが精一杯だったんですが
繰り返すうちには痛みに慣れていつか目標達成できるんじゃないかと思って
計画自体に無理があるとは気づきもせずに、何度も同じことを試みたのでした。

つまり何が言いたいかというと、物心つくかつかないかの小さな頃に
「自分は消えなければならない」と刷り込まれてしまう人間だっているんだよ、ということ。
わたしていどのごくごく些細なことの積み重ねでもこんなふうに思いこんでしまったくらいだから
事件になるような幼児虐待やらドメスティックバイオレンスやらの被害者になった子どもは
もっと強く、自分を否定する感情を植え付けられてしまうんじゃないかなあ、って。

両親に愛されてないとか嫌われているとか不要と思われていると感じることは
子どもにとっては世界の全てに否定されていることとほとんど同じ意味です。
そういう心の傷を負って自分を抹殺しなければならないという強迫観念を持っている人間に
理詰めで自ら死を選ぶことの愚かしさや罪深さを説くのは無意味だと思うんです。
彼らは自らが生きてあるそのこと自体がもっとも大きな罪だと感じているんですから。
死んではいけない、自殺なんて馬鹿なことを考えるな、と言うのではなく
あなたは生きていていいんだよ、あなたが生まれてきたことは正しいんだよ、
と伝え、それを信じさせることができなければ、なんの意味もない。

そういう心の傷を抱えながら表では普通の顔をして生きている人がいる、
(幼稚園児のわたしだって幼稚園では普通の明るい子どもを装っていたぐらいだから)
ということを理解できるひとって、きっと少数派なんでしょう。
この日記を読んで、やっぱりどんな事情だろうと死のうと考えるヤツは甘えてる、
と思う人だっているだろうし、書いてるわたしも甘えなのかなとちょっと思ってます。

でもね。本当のところ、完全に理解できる必要はないと思うんです。
もしもあなたの愛する人や大切な友達や仲間がそういう心の傷を持っているひとだったら
そしてあなたが両親に愛されて幸せに育ってきたひとだったら
無理に理解できるふりをする必要は全くないんです。
ただ。
自分は彼や彼女に出会えたことを幸せだと思っている、
彼や彼女が生まれてくれて、生きていてくれて、とても嬉しい、
彼や彼女は自分にとってとても必要な存在である、
そういう気持ちを、彼や彼女にまっすぐに伝えることさえできれば。
傷のありかを知らなくても、傷の原因を知らなくても、傷の痛みを知らなくても
傷のせいで歩きづらくなっているひとに手や肩を貸すことはできるから。きっと。

ああ。やっぱりなんのまとまりもない日記になっちゃった。
でもいいよね、日記だから。許して。
最後にもう一つだけ書いて、この話題についての日記は終わりにします。
何かのご縁があってこの日記を目にして下さったあなたへのお願い。
心の傷を抱えてよろよろと不器用に生きている人に出会ったとき
手をさしのべないまでもせめて、弱い人間だと責めないで下さい。
本人が一番、自分の心の弱さに苦しんでいるはずなので。


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