だぶるけいの活動日記
その日、ふと思ったことや気づいたことを何となく書いています・・・
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2004/11/05 恐怖の5週間
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2004/11/03 航空祭
2004/11/02 幻の枕カバー

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2004/02/16(月) 介護と腰痛
私が通勤で毎日通っている道沿いに老人医療病院があるのだが、この場所を通るたび、
ここでも色々な介護をしたりしてもらったりしている人々がいるんだろうな、ということが頭に思い浮かぶ。

その中でも特に体位変換は患者さん本人はもちろんのこと、介護する側も大変だと思う。


父が入院していたS病院では数時間ごとに臀部(おしり)の状態の確認などのために体の向きを変えていた。
通常は2人でするのだが、ナースコールで呼ばれたりして人が足りないと必然的に一人ですることになる。
二人だとそれほどのことではないのだが、さすがに一人では大変そうであった。

その中で、一人だけいとも簡単に体位変換をしている(ように見えた)ナースさんがいた。
私の母(←元ナース)もその手順を見て、「なるほど!こうすれば楽で簡単に出来るんだ。」
と感心するくらいの腕前?であった。やはり経験がなせる技なのか・・・(笑)

もう一つ大変だなぁ、と思ったのが週に一度の介護入浴であった。

入浴する、ということは当然患者さんをその場所まで運ばなくてはならない。
それにはまず、パイプ製の専用ベッドのようなもの(←名称は分かりませんが)に移しかえるのだが、
この作業は体位変換と違い、患者さんを完全に持ち上げなくてはならない。
だから当然、腰に負担がかかる。

ナースさん2〜3人とヘルパーさんが1人の『チーム』となり、
「いっせぇーのぉー、せっ!!」という掛け声(&気合)と共に、隣に据え付けた専用ベッドへと移してゆく。

その様子を初めて見たとき、うわっ!これは大変だぁ、と思ったので
「翌週は私もお手伝いしますので遠慮なく言ってくださいね!」と言ったら、
「いえ、大丈夫です。これも仕事のうちですからね。」と笑顔で答えてくれた。
うーむ、さすがプロである。


そして一週間後・・・

通常は午前中、仕事をした後で付き添いに行くのだが、この日は(事前に会社に事情を説明して)
介護入浴が終わってから会社に出勤する許可をもらっていたので、朝から病院に詰めていた。
ということで私のほうは準備万端である(^^)

入浴は9時半頃から始まるのだが、すぐにはまわってこない。

確か・・・次かその次くらいの順番になると看護師さんが来て、着替えと
新しいシーツ一式を持ってきてくれた(と思う)。

それから30分ほど経ってから例の『チーム』が来た。が、前回に比べ人数が1人少ない。
どうやら他の仕事に追われていてメンバーが足りないようだった。


父の頭部は私1人で持ち上げ、その他のところは看護師さん&ヘルパーさんに支えてもらいながら移動する。

「いっせぇーのぉー、せっ!!」

掛け声と同時に父の体が瞬間移動した(ような感じだった)。

腹水と下肢の浮腫みで健康時よりずっと重くなってしまった父の体を持ち上げるのは
ひと苦労だと思ったが、さすがにみなさん手慣れた様子だった。

とはいえ、これが体のがっちりした男性が行うのならばさほどのことではないのかも知れないが、
女性看護師さんやヘルパーさんがするのは、はっきり言って大変だし凄いことだ、と思った。

同時に、これでは腰を痛めてしまう人がいるのも当然だよなぁ、とも思った。
実際、元看護師の妹も体位変換などで腰を痛めてしまい、現在も腰痛に悩まされている。
「子育てが落ち着いたらまた働きたいけど、介護関係(この病院でいう内科のフロア)
はちょっと無理だなぁ。」とも言ってたし・・・。


入浴後、看護師さんに(そぉーっと)話を訊いてみたところ、
「以前はもう一人、ヘルパーさんが付いてくれてたんですけどね。」と言っていた(小声で・・・笑)。

どうやら経費削減の影響らしい。


しかし腰痛で勤務に穴をあけてしまうことを思えばこの部分の人員は削らない方がいいと思うのだが、
残念ながら経営者側と現場の考え方は違うようだ。

・・・あ、これ私の会社とおんなじだ(←現場担当なのでよく分かります・・・苦笑)。

2004/02/15(日) いろいろな買い物
『いろいろな買い物』

この一週間はいろいろな買い物をしてしまった。

(その1)ふらっと立ち寄った本屋さんで新撰組関連本とクルマ本(もちBMW)を衝動買い(←4日前)。
(その2)ここのところ行ってないなあ、と立ち寄ったロジャースで新譜と買いそびれていたCD2枚&お菓子(←一昨日)。
(その3)ちょいと髪もイメチェンしよっかなー、と美容院で部分パーマ(←昨日)。
(その4)池の青藻除去の薬を探しに繰り出したDIY店で特売のエンジンオイルを発見&即GET(←今日の午前中・・・^^;)。

そのほか、12日と13日の病院の検査代支払いやらガソリンスタンドで給油もしたし・・・

で、計算すると・・・げげっ!今週だけで4諭吉が飛んでるっ!!(汗)

やはり給料日直後はお金持ちになったような『錯覚』になっているので気をつけないと、と思っていたのだが・・・
(ちなみに私の会社は10日が給料日)
しばらくの間は節制生活が続く予定です・・・(涙)


午後からはお出かけを中止し、それまで「いつでも出来るから」と言い訳しながら
やってなかったことを片付けよう!ということでいくつか実行してみました。

(その1)母のクルマのブレーキランプ切れの交換。
(その2)My CARの電装パーツの取り付けの直し。
(その3)HPのリンク切れの手直し、などなど。

あ、それと洗車もしたんだっけ(←自分のクルマと母親のクルマの2台分)。

・・・とまあ、こんな感じでそこそこ充実した一日だった、かな??

2004/02/14(土) 初体験(^^;
今日、約2ヶ月ぶりに美容院に行ってきました。

最初はカットだけにしようと思っていたのだが予約するとき、なぜかイメチェンモードになっていたので
(ってなぜなんだろ?)「部分パーマも一緒に♪」とお願いしていたのであった(^^;

ただ、私の髪は量がものすごく多くてしかも超カタイ!のでパーマなんかかけたらボリュームが出過ぎて
大変なことになる、という思いがあったのでそれまでは遠慮していましたが、今回は担当美容師さんの
『センス』に期待することに(笑)

・・・というわけで私、恥ずかしながら今日がパーマ初体験の日なのです♪
そこで今日はその様子を少し書こうと思います。


席に座るとまずはいつものようにシャンプーをしてからカットが始まります。
そしてその間にドリンク(&キャンディー)のサービスがあります。
ちなみに今回も前回同様ウーロン茶を頼みました。

まあ、このサービスはそれまでもあったので驚きはしなかったのですが、今日はそのほかにな、なんと
『手のアロママッサージ』(という名称だったかな〜?)というサービスがあったのです!

担当の彼女曰く、「7〜8種類あるマッサージオイルのうち、お客さんに好きなものをセレクトしてもらって、
それを手にマッサージするんです。」というサービスらしい。

ただ「どのオイルにします?」と訊かれても、この分野は全くのシロウトなのでさっぱり分からない。
で、結局彼女のお勧めの『ミント系のオイル』にしてもらいました
(確かミント系のオイルは心身をリラックスさせてくれる、と書いてあったような気が・・・)

・・・アロママッサージ。これ、はっきり行って『快感』でした(笑)
時間にすればほんの数分でしたが、これはイイ!です。
うーむ、恐るべしアロマパワー・・・(爆)


えっと。。。話が脱線してしまいましたね(^^;

いつもはカット&シャンプーだけなので一時間くらいで終わるのですが、さすがにパーマはそうはいかないようです。

パーマ液塗って温めて、また液塗って温めて、またまた液塗って温めて・・・
しかも針金のように硬い私の髪質だと普通の人よりも入念にパーマ液をしみこませなければダメらしい。。。

そんなこんなで結局、3時間近く掛かってしまいましたが、今回は『アロママッサージ』というすんばらしいサービスを
してもらえたのでトータルでは大満足でした(^^)

ちなみに肝心の髪型は・・・うーん、どうなんだろ??

これは皆さんのご想像にお任せする、ということで(笑)

2004/02/13(金) 記憶とともに辿る道
今日は社内の仕事以外で忙しい一日となりました(^^)

午前中、昨日に引き続いての心臓検査(今日は超音波検査)のために病院に行って、
午後は早めの昼食を摂ってからすぐに『整備管理者選任前研修会』のため埼玉県某所の
研修会場へ行く、というスケジュールでした。


基本的に運送業を営む会社には(もちろん、私の勤務先も)『運行管理者』と『整備管理者』が
いなくてはならないのだが、それまで整備管理者は(亡くなった)父が務めていたため、現在、
会社に整備管理者がいない状態だったので、私が後任を務めることになってしまったのだ・・・。

ただ、それまでは実務経験が5年以上あれば書類を提出するだけで管理者に選任してもらうことが出来たのだが、
昨年からは実務経験こそ2年に短縮されたが、そのほかに整備管理者研修会の修了書がないと
選任してもらうことができなくなってしまったのです。

そして今回の会場は駅から遠く離れた場所だったので、当然のことながらMy CARをドライブです。

で、どうせなら通り慣れた道で行こう!ということで前の会社にいた頃によく使っていた道を通って行きました
(ちなみに5年ぶりでした)。


久しぶりに見る景色の数々・・・

当時と全く変わらない場所もあれば、以前の面影を残さないほど変貌した場所もあった。

「あの家のご家族は元気にやってるのかなあ・・・」

「あー、ここの店まだあったんだ!久しぶりに見たけど全然変わってないなあ・・・」

「信号の角の酒屋さん、とうとうコンビ二になっちゃったんだ・・・」

いろいろなことを思い浮かべながらクルマを走らせた。

知らない道をあてもなく走るのもよいが、今日のように以前通ったことのある道を
記憶とともに辿ってゆくのも悪くはないなあ、と思った。

仕事中ではあったが、ちょっとだけセンチな気分に浸ることのできた一日だった。


そして帰宅後は2日ぶりの入浴のため、一目散にお風呂へダーッシュ!!

ゆーっくりと湯船に浸かりながら今日一日の記憶を辿り、心も体もすっきりとした、気分の良い一日となりました。
いやぁ、お風呂ってホントにいいものですねー(by水野晴夫風・・・^^;)

あ、ちなみに来週も心臓検査の続きがありますが、入浴に支障のない検査なので少しだけ気が楽です(笑)

2004/02/12(木) ホルター検査
今日、病院で心臓検査用の機械を取り付けてもらった。
『ホルター検査』のためである。

『ホルター検査』というのは一日(24時間)の心電図の変化を記録するため、胸部の数箇所に
電極のようなものを貼り付け、そこから得られる数値を記録するものらしい。
その姿はなんか人造人間(ふ、古っ!!)の趣である。。。

現在、私の腹部にはベルトに巻かれた小さな計測器が付けられているのだが、
一見、そこいらに売っている万歩計のようで(笑)それほど高い機械には見えない。

さらにこの機械は『水濡れ厳禁』らしく、その間の入浴はもちろん出来ないそうである(涙)


で、念のため、担当技師の方に訊いてみましたが・・・

(私)「もし(水に)濡らしちゃったらどうなっちゃうんですか?」
(技師さん)「これ、ゼッタイに濡らしちゃダメなんですよぉ。」

(私)「ちなみに(この機械の価格って)いくら位するの??」
(技師さん)「すーんごく高いですよぉ・・・」

(私)「じゃあ保険とかって、入ってないの???」
(技師さん)「あはは、ないですよー。。。」

・・・ということで今日の入浴はきっぱりとあきらめました(笑)


ところでなぜ、今回受診したのかと言うと数年前から、数ヶ月に一度ではあるが突然、
心臓をギュッと掴まれるような痛みがあってその原因を調べるためであった。

ただ、じっと我慢していれば数分でおさまっていたので、それまでは「ま、いっか」と放っておいたのだが、
今年に入りその頻度が増してきたことと、昨年の父や年初の母のことがあったので一度、きちんと
診てもらったほうがいいかなー?と思ったのが今回の検査理由である。
(っていうかそもそも高校卒業以来、健康診断を一度もしたことがないんですけど。)

技師さんから
「もし、心臓の痛みなどの自覚症状などがあったときは機械に付いているボタンを押して下さい。」
と言われていましたが、日中、少しだけ痛みがあったので早速ボタンを押してみました。

果てさて、一体どんな結果が出るのでしょうか?
すべては来週以降のお楽しみです。。。

ちなみに明日のスケジュールは機械取り外し後に『超音波検査(心臓エコー)』の予定っす♪

2004/02/11(水) メジロ
今日、会社に来ると一羽の小鳥が事務所の中にいた。

訊くと、弱っていて飛ぶことが出来ないようだったので室内に入れたのだと言う。
会社の人たちは「かわいい」「何ていう鳥?」などと言いながらその様子を見ていた。

その小鳥は『メジロ』であった。

メジロは上面が緑色の羽に覆われているが、その名が示す通り、目の周りだけは
白色のリング状になっている鳥である。


しばらくすると、室内に飾ってある花の中に、くちばしを入れて蜜を吸いはじめた。
一メートルくらいまで近づいて見たのだが、それでも逃げる様子はない。
野鳥のメジロならすぐに逃げ出すはずなのだが・・・

そのうち、元気に飛ぶようになってきたので窓を開けたのだが、それでも外に出ない。
やはり、誰かに飼われていたのだろうか?

・・・だとするとこのメジロはおそらく死んでしまうだろう。

メジロは本来、警戒心が強い(野生の)鳥なのだがその愛らしい姿ゆえに、そっと捕獲して
飼っている人もいるという(本来、捕獲禁止の鳥なのだが)。

だが、一度飼われた野鳥というのは、餌を自分で探すことをしなくなってしまう。
餌を与えてもらうことが、その鳥にとっての日常となってしまうからである。

人の都合で飼われていた動物が、要らなくなったからといっていきなり野に放たれたらどうなるか、
ということを考えたことがある人は一体どれくらいいるのだろうか?

一度飼い始めたら最後まで責任を持たないと、結局はその動物の寿命を縮めることになってしまうのだが・・・。


午後になるとメジロの姿は見えなくなっていた。
どこかへと飛び立ったのだろうか?

その行方はもう、誰にも分からない・・・

2004/02/10(火) 争いがもたらすもの
人と人が争うこと、これは『喧嘩』である。
これが国と国どうしの争いとなると、『戦争』という名に変わる。

戦争では『負けること=国が滅びる』ということなので、それぞれの国の人々は
決死の覚悟でその争いに臨み、勝つ為に全力を尽くす。

そして個人のレベルでは『己を守り、敵を倒すこと』が他の何よりも優先される。

そのためには手段を選ばず、時には非人道的な方法も使う。

例えば、「毒ガスを使用する」、「軍人以外の民間人をも殺戮する無差別攻撃をする」、
「戦場で守るべき野戦病院や衛星兵(主に軍などで簡単な医療の教育を受けた兵士。
本来、戦場では敵味方問わず殺してはいけない)を狙うこと」など・・・。

そこにはモラルやルールなどはない。
だから人々の心はすさみ、ボロボロになる。そして人格が歪められてしまう。


ただ、技術の点に絞るともし戦争がなかったら・・・という事柄があるのもまた事実で、
通常10年かかって開発される技術(の進歩)が、戦時中はわずか1年で成し遂げられる、と言われている。

例えば、第2次世界大戦中ドイツの手によって開発された『ロケット』のV2ミサイル
(=世界初の大陸弾道弾)やプロペラ機から一気に進化した『ジェット機』、現在の医療では
欠かせない『ペニシリン』、そして広島と長崎に落とされたあの『原子力爆弾』などは
大戦前には考えられなかったものばかりで(科学者や識者の実験的な技術レベルとしては存在したが)
その点では戦争がもたらした役割は確かに大きい。
(もちろん、その裏では開発に携わった人たちの筆舌に尽くしがたい努力があった、ということは想像に難くないが。)

そして先人たちが命懸けで造りだした、それらの技術や進歩があるからこそ、今の時代の繁栄がもたれされたのだ。
現代に生きる人々はまず、そのことに感謝しなくてはいけないと思う。


テレビを見ていたら今日もイラクのニュースが流れていた。現地に赴いている自衛隊の姿が映った。
その映像を見る限りは一見、問題はなさそうに見える。

だが・・・もし現地で『最悪の事態』が起こったら、どうなるのだろうか?

自国の危機でもないのに外圧に押され、一部のお偉方の人によって派遣が決められ、
現地に赴いた人たちとその家族たちは・・・。

国際貢献が重要だ、というのは重々承知している。が、もし自分の家族や身近な人たちが
それに該当した場合、現地に赴くことに賛成するのだろうか?

今回の派遣はどう考えても、湾岸戦争のとき、「金は出すが人は出さない」と他国に言われ続けた
過去があったから今回は意地でも「人を派遣する」という『こだわり』のためだけに決定した、としか思えない。
別に日本に他国が攻めてきたという訳ではないのだ。

確かに彼らは戦場の真っ只中の地域に行ったわけではないのかも知れない。
だが、そこにはモラルやルールなどは関係ない、テロリストたちが潜む(可能性のある)地域なのだ。
そんな彼らの手によって『最悪の事態』が引き起こされる前に早く日本に戻ってきて欲しい。

何ももたらさなくてもいい。
ただ無事に帰ってきてくれさえすれば、それでいい。

争いや憎しみは人々から幸福と人を慈しむ心を奪い、(そして万一のことが起きてしまったら)
残された周りの人々の心を苦しめるはずだから。

2004/02/09(月) 妹からの電話
前日のドキュメンタリー番組の感動(?)から一夜明けた昨日(8日)
我が家&妹(と長女)たちと父のお墓参りに行ってきた。

仏壇の前では毎日手を合わせているが、こうしてお墓参りに行くのは約1ヶ月ぶりになる。
父の墓前で改めて今日までに起こった色々な出来事を報告してきた。


その日の夜、例の番組を見た妹から電話がかかってきた。

「お父さんが入院してたときに見かけた、取材の人たちはこの番組のために来てたんだね。」

妹も私と同様、当時は父のことで頭が一杯だったので気にも留めていなかったそうである。


「そうだったんだ・・・なんか懐かしいよね。。」妹がポツリと言った。

昨日の私と同様、妹も懐かしさと切なさが入り混じった気分だったようだ。


私の妹は以前(何年前かはナイショ)このS病院で看護婦をしていたことがあった。
しかも父が入院していた4F北ナースステーションの向かいの4F南ナースステーションにいたそうだ
(もちろん内科)。

当時からこの病院に在籍していたA先生は、看護婦さんたちの間で『Aちゃん』という愛称(?)
で呼ばれていた、優しい先生だったそうである。
もちろん今は『Aちゃん』などとは口が裂けても言えないそうだが(オフレコ話、バラしちゃった・・・)。

そして番組で紹介された『O先生』も当時からこの病院で働いていたそうである。


(妹)「O先生は、看護婦さんがするようなこと(患者さんの心のケア)まで自分でしていたんだね。
   番組で『緩和医療科』の先生って紹介されていたけど、その意味がよく分かった。」

(私)「うん、確かにその通りだよな・・・」

(妹)「私は内科だったから(外科のO先生とは)直接話したりとかはあんまりなかったけど、
   当時からあんな感じだった。」


そのとき私は『O先生』が廊下で患者さんやその家族の方たちに挨拶をしている姿を思い出していた。

ただの付き添いに過ぎない私たちに対しても変わらなかったことも・・・

2004/02/08(日) O先生
昨日、母から「知人から訊いたあるドキュメンタリー番組の放送があるからビデオを録っておいて。」と言われた。

食事をとりながら改めて放送を見たのだが、映像を見た瞬間、箸が止まり、目が釘づけになった。

「こ、これは・・・!」

なんと父が昨年、そして今年に母が入院していたS病院の映像が映し出されていた。
そして、その病院の『ある医師』が紹介された。

「あっ!」・・・さらに目が釘づけになった。
ある医師とは『O先生』のことであった。

O先生は父の主治医ではなかったが、父の入院中に何度か言葉を交わしたことがあった。
そしてこの先生が外科医だったことをその番組で初めて知った。


そういえば・・・昨年、父の付き添いで病院に行ったある日、何人かのテレビクルーが
4北ナースステーションで撮影の準備をしていたことを思い出した。

当時の私は父のことで頭が一杯で、特に思うところはなかったのだが、
今映し出されている映像は紛れもなく当時のものであろう・・・


番組が進むと、見覚えのある看護師さんたちが(一瞬ではあったが)確かに映っていた。
もちろん父がいた、あの病室も・・・

私の頭の中に残っていた当時の記憶の断片が、一つずつ繋がってゆく・・・


確か、父が個室に移って間もないときの話である。

個室に移った父のそばに付き添うと決心はしたが、当然その時間は会社に居ることはできない。
そこで、少しでも会社の仕事ができるように、病室内に自分のノートパソコンを持ち込めないかの
相談をするため、ナースステーションに行って、居合わせた看護師さんに訊いてみたのだが、

「うーん、私では判断できないので、申し訳ありませんが先生に聞いてみてください。」と言われた。

ただ、主治医のA先生は猛烈に忙しい方で、ムンテラなど事前の約束がないといつ逢えるか分からなかった。


そのとき、ちょうどそこに居合わせたのがO先生であった。

早速、O先生に訊いてみた。

「先生、病室内にパソコンを持ち込んでもよろしいでしょうか?もちろん(携帯電話などで)
外部にアクセスするようなことはしません。ただ、仕事などのデータを打ち込むために使いたいのですが。」

O先生は「うーん、多分大丈夫だとは思いますが、一応、主治医の先生に訊いたほうが間違いないですね。」

と、すまなそうに答えてくれた。

「・・・そうですよね。やっぱり担当の先生を探して訊いてみます。」

その日の夜、運良くA先生が4北に姿を見せたので、ダッシュで(苦笑)先生の所に行って許可をもらったのであった。
(もちろん、OKでした・・・^^)

当時、私はO先生がどこの所属の先生だとかは全く知らず、ただ同じ先生だから、
というだけでいきなり質問をしたのであった。

そのときのO先生は大変穏やかで、白衣を着ていなければとても医師には見えない(良い意味で)
そんな印象であった。

その先生が今、テレビに映し出されている。

穏やかな話し方は当時と全く変わらなかった。


O先生は終末医療にかかわる医師で、終末期の患者さんの意見を尊重し、そして耳を傾け、いかに患者さんが
精神的な苦痛のない最期を迎えられるかを第一に考えてくれる先生である、と番組で紹介されていた。

この考え方は父の主治医であったA先生と全く同じものであった。
この病院で在宅看護に理解があるのはA先生や(担当看護師さんだった)Rさんだけではなかったのだ。


私は番組を見て、そのことに深い感動を覚えた。

良い病院というのは規模の大きさや設備で決まるわけではない。

やはり良い先生や看護師さんなどの医療スタッフが揃うところなのだ、と。


父がこの病院に入院していた当時のことを思い出しながら、あらためてそう思った。

2004/02/07(土) 夢に向かって
昨日、テレビを見ていたら、ある教師の特集をしていた。

その人は生まれつき、脳性マヒの障害を持っていて、現在も言葉や体に障害が残っている。
酸欠状態で生まれてきたときの障害だそうだ。


月日は流れ、彼はある夢を持ち始めた。
それは『教師』になる、ということであった。

彼はまず、家庭教師をするためのセンターに問い合わせたが、断られてしまった。
そこで友人たちが手作りのビラを作り、街頭で配りはじめた。

もちろん、自身が脳性マヒであることはそのビラにも書かれていた。

「そんなにまでして、家庭教師をしたい人がいるんだ」
・・・ビラを見て心を打たれ、連絡をしてくる人が現れた。

彼はまず、教師の第一歩目を踏み出すことに成功した。


そして彼はいよいよ夢を実現する為に、『教員試験』を受けた。
・・・が、さすがに家庭教師のようには行かず、2回の試験に不合格になってしまった。

だが、彼はあきらめなかった。

そして3度目の試験・・・

彼は見事に教員試験に合格した!



彼は今、秋田県のある中学校で教鞭を振るっている。

ある日の授業で彼は言った。

「誰か手伝ってくれる人(いませんか)?」

彼はそう言って生徒と共に授業を進めてゆく。生徒とコミュニケーションをとる。
そして、その姿を生徒である子供たちはごく『普通』に捉えている。

これがこの学校での日常の姿である。


彼の本当の夢は『クラス担任』になることである。
もちろん、周りでは反対の声も多いそうだ。
そのことは彼自身が誰よりもいちばんよく分かっている。

テレビ司会者がそれについてのアンケート結果を解説していた。

それによると、『障害者が教師になること』と、『我が子に教えること(=家庭教師)』については
賛成意見と反対意見がほぼ半々であった。

だが、『障害者が我が子の担任の教師になること』の賛成意見は31.3%であった。

数字が示す現実は、確かに厳しい・・・

それでは、どうすればよいのか?

・・・彼の答えは明快であった。

「精一杯やっていくしかない。」

脳性マヒの残る自分の『ありのままの姿』で精一杯、授業を進めていくこと・・・

これが彼の出した答えであった。


夢を実現するために、今日も彼は突き進んでいる。

担任教師になる、という夢に向かって・・・

2月絵日記の続き


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