だぶるけいの活動日記
その日、ふと思ったことや気づいたことを何となく書いています・・・
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2004/04/29(木) 連休初日
いよいよ待望のGWに突入した。

GWの何がいいって、やっぱり起床時間を気にしなくっても良い(=いくらでも寝られる)ということです(^^)

ちなみに月曜日と火曜日はいろいろな用件のためにあちこちに出かけていたので帰ってきたのが両日共に午前様。
それからお風呂に入って、結局寝たのが両日ともに2時半ごろ。
起床時間は6時半だから4時間睡眠・・・。

普段は6時間くらい寝ないと眠くて仕方のない人なので、連休前最後の日だった昨日(水曜日)は
一日中眠気との戦いでしたね(苦笑)

ちなみに昨日、就寝したのがこれまた2時半過ぎ・・・んで、起きたのが9時。
うーん、やっぱり休日はいいもんですねぇ(笑)

とはいえまだ9時なので2度寝しようと思ったが、月曜日に降った雨のおかげでクルマは汚れまくっていた
ことを思い出し、まず洗車をすることにした。
洗車自体は1時間半くらいで終了したが、今日は他に予定を入れていないこともあり、正月以来になる
ワックス掛けも同時にすることにした。

さらに2時間後、ようやくワックス掛けも終わり、愛車はピカピカになった。

そのあと、軽い昼食を済ませた後、恒例の池掃除。
日曜日に水を入れ替えた効果もあって今回はそれほど汚れてはいなかった。
そのときに備長炭を池の中に入れておいたのだが、その効果もいくらかはあったのかも知れない。

その後も仕事や時間に追われることなく、まったりとしたひと時を過ごし連休初日は幕を閉じた。


明日は静岡にドライブの予定。
たっぷりと睡眠をとって・・・と時計を見るともう1時半だ!
ということでそろそろ寝ます(^^;

2004/04/26(月) 柿の実がなる頃
昨日、週末恒例となった(?)池の手入れをした。

普段はろ過器の掃除だけで済むのだが、4月に入ってから急激に気温が高くなったせいか
ろ過器だけでは藻などが取りきれないため、池の水が真っ黒になってしまい、中にいるはずの鯉が
全く見えない状態となってしまった。

あまりのひどさに先週、半分だけ水を入れ替えたが、わずか1週間ですっかり元通りになってしまった。
仕方がないので今回は池の底に溜まった汚れを丹念にこすり取ってから、3分の2以上の水を入れ替えてみた。
鯉は水質の変化にはあまり強くないので、急な水の入れ替えはしたくなかったが、あの汚れでは仕方がない。

2時間ほどかけて水の入れ替えを済ませたが、GW(の連休中)にあらためてじっくりと手入れしようと思う。
それまで汚れずに済んでくれればいいんだけど・・・。


同じ頃、母は庭で草むしりをしていたのだが、隣のご主人さんと何やら話をしていた。
後で話の内容を聞くと、母がかねがね気に掛けていた『あること』であった。

『あること』とは昨年、父が一時帰宅していたときの話であった。

病院に戻る日の朝、母が庭に出ていた父を見たとき、隣家の方と話をしていたそうだ。
普段、あまり自分からは話をしない父が珍しいなと思ったそうだが、その時は大して気にも掛けなかった。
だが今になって思えば、その時の話が病室以外で父が交わした最期の会話になってしまったため、
それ以来母がずっと気に掛けていた、という訳である。

だからそのうち聞いてみようとは思っていたそうだが、忙しいこともあってなかなかその機会に恵まれなかった。
昨日になってようやく、その時の様子を訊かせてもらったそうだ・・・。

(父)「今年の柿はどうかねぇ?」
(お隣さん)「去年は少なかったから今年はたくさん実がなると思いますよ。」
(父)「まあ、その分(隣家の庭で春に咲いた)桜で楽しませてもらったからなぁ・・・」

普段はそういう話をめったにしない父が、そんな取り留めのないことを話していたそうである。

その時、父は柿の実がなる頃の自分(の運命)を想像していたのだろうか?
父に問い掛けたくてもそれはもう、叶わない。
今はもう、誰にも分からない・・・。

2004/04/25(日) おっちょこちょい
これ、先週の話なんですが(書き忘れたもので・・・汗)。

前回(2月14日)の初パーマから2ヶ月以上過ぎ、髪がジャングル状態になったので行きつけの美容院に
カットをしに行ってきました。

今回はカットのみだったので、合間のサービスはあまり期待していなかったのですが、
担当美容師さんが私のカットと同時進行でパーマのお客さんを抱えていて、いつもより時間が掛かってしまうため、
その分、マッサージやらドリンクやらのサービステンコ盛りでした。

あ、もちろん前回『快感』を味わえた『両手へのアロママッサージ』もしっかりとしてもらってきました。

アロマですが、前の週までの疲れ(=遊び疲れ)がどっと出ていてテンションがかなーり低かったので
(朝9時からのカットなんで単純に眠い、というのもありますが・・・)
今回は「(効能に)元気が出る!」と書いてあったオイル(確か柑橘系だったような気がしますが・・・名前忘れた)
をセレクトしました。

で、マッサージをしてくれた方がメチャ明るい方で、ほんの数分の間でしたが色々と楽しい話をしました。
私が前週に行った神戸の話から始まったんですが、気持ち良いアロママッサージのせいかは分かりませんが、
気が付けばなぜか『失敗話』にすりかわっていました(苦笑)

初めての神戸で目的地の『ポートアイランド』をなぜか『六甲アイランド』を間違えてしまったこと(汗)
などを話すと彼女は、

「私も色々ありますよ!確か高校の修学旅行のとき、富士の山麓で『遭難』しかけたり、とか・・・。」

「えー!そ、遭難っすか!富士山麓って要は『樹海』だよねぇ。よくぞご無事で・・・(笑)」

「ええ。よそみして歩いてたらいつの間に崖から落っこちてたんですよぉ(っておいおい)。
で、その後、先生や仲間たちが見つけてくれたんで無事、帰ってこれたんですけどね」

「何気に聞いてたけど、それってすんごい危ない話ですよねぇ。」

「あ、私ってすっごいおっちょこちょいなんですよ。」

「僕もおっちょこちょいですよ(って別に言わんでええっちゅーの)。
例えばスキーのときに崖から落っこちたりとか(あ、言っちゃった!)。初心者のころ、迂回コースで曲がりきれずに・・・」

「えー、そうなんですかぁ!(笑)」

し、しまった!彼女の巧みな話術に乗ってまた余計な失敗談を話してしまった!!


・・・もしかするとこれも、(元気が出る)アロマテラピーの効果なんでしょうか?
いや、きっとそうに違いないっ!!

まあ、楽しい話ができたので今回は良しとしましょう(^^;

2004/04/22(木) 意外な接点(後編)
明治維新後、松平乗謨(まつだいらのりかた)は『松平』姓を三河の先祖の地名にちなんで『大給(おぎゅう)』と改めた。
さらに明治2年6月に龍岡藩知事に任命されたが、そのとき彼は乗謨の名を『恒(ゆずる)』と改名した。


明治10年(1877年)2月に起こった『西南戦争』では死傷者が続々と発生し、軍医および医療関係者が不足していた。
その当時、元老院議官だった『大給恒(おぎゅうゆずる)』はシーボルトなどから伝え聞いていた
『軍人救護会社』を作りたいと思っていた。

同じころ、九州佐賀藩出身で恒と同じ元老院議官の『佐野常民(さのつねたみ)』は慶応3年(1967年)のパリ博覧会と
明治6年(1873年)のウイーン大博覧会の2回にわたり、日本代表として渡欧していたときに知った、
赤十字活動の知識を持って帰国していた。

2人の意見は一致し、明治10年に当時の政府へ設立を願い出たが、残念ながら却下されてしまった。
二人の考えの中にあった「敵味方の区別なく救護する」という部分が当時の政府には理解されなかったのだ。
味方はともかく敵を助ける、というのはまだ当時の主流(の考え方)ではなかったのだろう。

しかし、同年5月に佐野が熊本の司令部で征討総督をしていた『有栖川宮熾仁親王(ありすのがわたるひとしんのう)』へ提出した
嘆願書が認められ、『博愛社』(後の赤十字社)としての活動を許可されたのであった。
(『博愛社』はその後、明治19年(1886年)に日本政府がジュネーブ条約に加盟したことに伴い、翌年に名称を
『日本赤十字社』に改名した。)

ちなみに発起人である2人は、ともに副総長に就任した。
そして嘆願書を提出した明治10年(1877年)5月1日は現在、日本赤十字社の創立日とされている。


・・・とまあ、今回、龍岡城五稜郭を築城した『松平乗謨』が日本赤十字社創立のきっかけとなった『大給恒』と
同一人物だったこと、また『(龍岡城)五稜郭』と『赤十字社』が一つにつながった、という事実に
驚きと感動を覚えたのであった。

そしてこの龍岡城の中(敷地内)には何と、母の母校(小学校)が今でもあるんです!

意外な接点ってまさにこのことだよなあ、と一人悦に入っている自分であった(笑)

2004/04/21(水) 意外な接点(前編)
某局で現在放送中のドラマがきっかけで興味を持った『新撰組』だが、新撰組と私の母方の実家のある
長野県南佐久郡の臼田町には、意外な接点があることが最近分かった。

新撰組副長の『土方歳三』は、戊辰戦争の最後の戦いとなった函館戦争の時に、一本木関門で
壮絶な戦死を遂げたことは土方ファンの方ならご存知のことと思う。

その函館戦争における最後の舞台となった場所と言えば、これまたご存知『(函館)五稜郭』だが、
実は日本にもう一つ、同じ築城方法によって建てられた城があるのだ。
それが臼田町にある『龍岡城五稜郭』である。

龍岡城の五稜郭は函館の五稜郭と同様、星型稜堡の洋式築城によって建てられた城である。
同時にこの城は、当時の龍岡藩主『松平乗謨(まつだいらのりかた)』が築城した日本最後の城でもある。
(元治元年(1864年)三月着工/慶応三年(1867年)四月竣工)

『龍岡藩』というのは明治維新後に改名されたもので、当時は『(信州)田野口藩』と呼ばれていた。
ちなみに『龍岡』という名前だが、乗謨が青年時代に漢詩を学んだときの雅号(=ペンネーム)の『龍岡』
にちなんで名付けられたものと伝えられている(のち明治4年に廃藩)。

乗謨は『大給(おぎゅう)松平氏』最後の藩主で江戸幕末には老中や陸中総裁など、
幕府の要職にあった人物だったがここではこの乗謨について解説していきたいと思う。

何故って?
色々調べていくうちにちょっとびっくりする発見をしたからなのです・・・。


乗謨は幕末の動乱期の慶応元年(1965年)に陸軍奉行の要職について軍務を統括し、
その後若年寄陸軍用掛となり、さらに翌年(1966年)老中格へと抜擢された。

同年、徳川14代将軍家茂が逝去した時は葬儀掛(=委員長)の大役を務め、その後、
陸軍総裁に就任したのだが、その時の彼は弱冠27歳という若さであった。

また、その年の暮れに慶喜が15代将軍に就任したが、そのわずか20日後に孝明天皇が崩御してしまい、
そのことがきっかけで大政奉還をすることになるのだが、乗謨はその交渉にも尽力した。

・・・とまあ、そんな感じで新撰組同様、幕末の動乱期を乗り切るのだが、色々調べていくうちに維新後、
彼がなんと『赤十字』で重要な役割を果たしてきたことが分かったのだ。

(長くなりそうなので続きは明日♪)

2004/04/20(火) お恥ずかしい話ですが・・・
実は昨日からおしりが痛い。
・・・と言っても『痔』が原因ではないことを最初にお断りしておきます(^^;

うーんやっぱり書くのやめよっかな〜。と〜っても恥ずかしいんで・・・
あ、いや、ちゃんと正直に白状します(って誰に??)

日曜日に池の掃除をしている時、吸い上げポンプの調子が悪かったので
ポンプ本体のチェックをしていた時に足を滑らせて、池の淵におしりの左側をしたたか打ち付けたあげく、
な、なんと池の中に転落してしまったのです(傍から見ると露天風呂状態・・・サ・イ・ア・ク)。

直前に美容院でカットしてもらったばかりの髪までは濡れずにすんだのは不幸中の幸いだったが、
腰上あたりまで見事に濡れてしまった。
その時着けてた時計は防水型だったし、体がずぶぬれになって『超ハズカシカッタ』ことを除けば
特に問題はなかったと思っていたのだが(少なくとも昨日までは)、どうも打った部分が痛いのである。

(おしりの)左側が痛いので現在はそちらに体重が掛からないような何ともヘンテコな座り方をしているのだが
周りにそれを悟られないようにしている自分が(恥ずかしくってとても言えない・・・)可笑しいやら情けないやら、
のトホホな状態である。

さらにマイカーはマニュアルミッション車なので、通勤時のクルマの運転もかなりキビシイ状態なのであります。

やっぱり先週まで遊びすぎたバチがあたったのかも知れない、と痛むおしりをさすりながら思う自分であった
(苦笑)(→ってこれがホントの『苦笑』・・・^^;)

今週末も庭や池の手入れをする予定だが、今度は底が磨り減ったサンダルではなく、
長靴を履いて作業をしなければ・・・
これ、今回の教訓です(そんなん当たりまえじゃん!と突っ込まないでね♪)

ちなみに今週末もまったりと過ごす予定です(^^)
それまでに痛み、引かないかな〜

2004/04/19(月) 普通の休日?
昨日は約1ヶ月ぶりに普通の休日(?)を過ごしました。

朝食後、朝9時に予約してあった美容院にカットに行き、そのあと藻やら何やらで汚れまくっていた
池の掃除&水の入れ替えを済ませる作業をしていたら、いつの間に13時を回っていました。

その後、妹たちが来たのでみんなで昼食を食べてから父のお墓参りに行こう、ということで
近所のファミレスに行くもどこも満車で入れない・・・。

仕方がないので先にお墓参りに行くことにしました。
が、到着直前でなんとお線香を忘れたことに気づき(おいおい)、あわてて近くのお店に買いに走ってから
無事、父の墓前にたどり着きました。

「おまえたち、相変わらずおっちょこちょいだなぁ。いい加減に学習しろ!」
という父の嘆き声が聞こえてくるようでした・・・。

そんなこんなでドタバタしたお墓参りを済ませてから、先ほど行きそびれたファミレスに行って
遅〜い昼食を済ませました(この時点でもう、15時半を回っていました)。
家に戻ってから、庭の草むしりやら妹の子供の相手やら色々な雑用を済ませて部屋に戻ると
すでに17時を回っていました。

この日、まだパソコンを開いていなかったのであわてて(またあわててかよ!)メールチェックとBBSの返事を
してるうちに物凄〜い睡魔が襲ってきました。

・・・そして、その後の記憶がないまま、気がついたら『次の日の朝』を迎えていました(大汗)

思えば前の週まで3週連続で遊びまわっていたのでさすがにその疲れが出たのかも知れません。

まあ、たまにはこんな休日があってもいいかな〜、と自分に言い聞かせて、無理矢理納得させている
今日この頃です(^^;

2004/04/17(土) 横山光輝氏
一昨日、自宅からの出火で大やけどを負い、重体だった漫画家の横山光輝氏が69歳で亡くなった。

数年前から体調を崩したことや足を骨折したことが原因で自宅療養の生活を送られていたそうだが、
執筆自体は(徐々にではあるが)継続していたそうで、志半ばといった中での死は惜しまれてならない。
ニュースによるとタバコの不始末が原因らしいが、いずれにせよ残念な話である。

横山光輝氏と言うと、有名な漫画をたくさん世に送り出してきたが、
私の中で最も印象に残っているのが『三国志』である。

何年前かは忘れたが、当時テレビで放映されていたこの番組を偶然見たことが三国志を知るきっかけとなった。
赤壁の戦いまで放送してテレビ放映を終了したのだが、これからが本当の盛り上がりを迎えるというところで
放送が終了してしまったので、それからというもの三国志の関連本を買いあさり、吉川英治氏の三国志
(小説。全8巻)を読破し、さらにまだ飽き足らず、ついには正史三国志(直訳に近い本。全8巻)
まで手に入れるほど興味を持つに至ったのである。

以下の言葉や故事はすべて三国志から出てきた言葉である。

『魏志倭人伝』(当時の日本=邪馬台国や女王卑弥呼について書かれたもの)
『水魚の交わり』(劉備と孔明のあまりの仲の良さを妬んだ張飛をたしなめたときに言った言葉)
『関帝廟』(関羽を中心に息子の関平と部下の周倉の3人を飾ってある廟。中華街などでよく見かける)

もちろん、その他にもたくさんの故事や言葉がある(実際に読んでもらえれば分かります)。

2000年も前にあった出来事が現在に伝わり続けていることに感動したし(もちろん脚色された話ではあるが)
たくさんの書物が現在もなお、出版され続けている事実が『三国志』の価値を如実に示していると思う。

・・・とまあ、こんな感じできっかけは漫画だが、それによって興味を持ち色々な故事を知ることが出来たのだから、
そういう意味でこの漫画には大変感謝している。

そしてその作者の突然の死は返す返す残念な話である。

あらためて故人のご冥福をお祈りいたします・・・。

2004/04/12(月) 神戸
10日&11日は神戸に行ってきました。

神戸に行くのは生まれて初めてだったので、行く前からワクワクドキドキでした。
ちなみに今回神戸に足を伸ばすきっかけとなったのは11日のBMWのイベント(西日本オフ)でした。
今まで関西のBMWのオフ会に行くことは(それもクルマで)考えてもみなかったのですが、気が付いたら
参加することになっていました(汗)

で、せっかく神戸に行くのならしっかりと観光もしたいということで10日の12時前に神戸入りしました。

ただ、どこをどう見たらよいのかさっぱり分からないので、地元の友人に頼みこんで案内をしてもらうことにしました。
まず、ホテルにクルマを置いてから北野町の異人街や船のクルージングなど、あちこちを廻りました。

初めて見る神戸の街は、震災の傷跡が新しい建物に置き代わっていて、当時の面影はほとんど見られませんでした。
そして北野の異人街は事前の予想通りの雰囲気で、まさに観光にふさわしい場所でした。
当時の雰囲気を現在も味わえる、という意味ではまさにぴったりの場所だと思います。

私が以前住んでいた川越の街も江戸時代に建てられた『蔵造りの建物』が街の中心街にあって
独特の雰囲気を醸し出しています。

そして蔵造りの一本隣の通りには大正時代に建てられた建造物があります。
こちらは蔵造りほど有名ではありませんが当時の流行を取り入れた、これまた独特の雰囲気になっています。
個人的にはこちらの方が好きなのですが異人街もその雰囲気に近いかも知れませんね。

話は戻りますが、さすがにあちこちをグルグル歩き回って疲れたので一旦ホテルにチェックインして一休み。
さらに駆け足で廻った分、昼食を摂り損ねたのでお腹が空いてしまい、夕方からは食べ歩きツアーをすることに。

で、どうせなら地元お勧めのお店に行こう!ということで17時頃に再び街に繰り出しました。

なぜか店内に観音様が飾ってあって少し怪しげな雰囲気だけど味はお勧めのチーズケーキのお店や、
これまた美味しいけど、店のおばちゃんがとぉーっても無愛想なたこ焼き(明石焼き)の店など
(←ていうかホントに無愛想だったんで思わず笑っちゃったくらいです)
グルメツアーをしてから地元の中華街(南京町)でお食事会をしてきました。

ここでもワイワイガヤガヤなひと時を過ごし、ホテルに戻りました。


・・・とまあ、こんな感じであっという間に一日は過ぎていきました。
もっと時間があれば・・・と思いましたが、限られた時間の中で目一杯楽しむことができました。

ちなみに、本来神戸を訪れる目的のBMWオフ会は次の日なのですが、この時点でかなりヘロヘロ状態でした(汗)。
そんな訳で帰ってきてからまる一日経った現在もかなーりお疲れモードになってます。

ということで今日も早く寝よっと(笑)

2004/04/09(金) 恐れていた事態
昨日、イラクの武装組織による邦人拘束のニュースが報道された。
その前日の自衛隊宿営地近くに向けて発射された砲弾の件もそうだが、どう考えても
『最悪の事態』を考えざるを得ない。

確か、2月10日の日記にこの件について書いたことがあったのだが、
まさにそのとき憂慮した事態が今、起こりかけている。

相手は手段を選ばない、理不尽な要求をするテロリストたちなのだ。
いくら卑劣だ、などと非難をしたところで相手の耳には届かない。
そこにはモラルやルールのかけらもない。

もちろん、テロリストたちの要求に簡単に応じることが最良の方法などとは思わない。

だが、現実に拉致され、人質になっている邦人がいるのは紛れも無い事実なのだ。
もし犠牲者が出たら、日本政府はどうするのだろうか?
そしてどういう対応、いや責任を取るのだろうか?


福田官房長官が昨日の会見で、
「自衛隊を派遣しなかったらテロが起きないのですか?テロはどこにおいても起きる。」と言っていた。
それならば彼自身がイラクへ、それも一番危険だと言われている場所に行ってみればいい。

例えそれがパフォーマンスだと言われても、少なくとも(イラクへ行ったという)その勇気と事実は残るのだ。

いくら日本国内で「最大限の努力をする。」とか「救出に全力を尽くす。」などと言っても救出の
具体策を示しているわけではない。だから何の説得力もない。
口先だけなら何とでも言えるのだ。

「テロリストの要求には絶対に屈してはならない。毅然とした対応をするべきだ。」
という考え方をする人々はその前に、自衛隊派遣までの経緯を今いちど考えてもらいたい。

自国の危機でもないのに外圧に押され、一部のお偉方の人によって派遣が決められ、
そして現地に赴いた、ということを。

何よりも、現地の自衛隊員の心中を思うと何ともやりきれない気分になる。
立場上、「本当は日本に帰りたいんです」と言いたくてもそんなことは決して口には出来ない。
だから表向きは「撤退は決してしない」と言うことだろう。


だが、もし犠牲者が出てしまったらとしたら・・・

一度失われた命は二度と戻ってこないのだ。
命の価値、そして重みを今一度考えてもらいたい。


一人の命の灯火が消える瞬間を、昨年末に見届けたその経験から、
切にそう願う・・・

4月絵日記の続き


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