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2004/04/21(水)
意外な接点(前編)
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某局で現在放送中のドラマがきっかけで興味を持った『新撰組』だが、新撰組と私の母方の実家のある 長野県南佐久郡の臼田町には、意外な接点があることが最近分かった。
新撰組副長の『土方歳三』は、戊辰戦争の最後の戦いとなった函館戦争の時に、一本木関門で 壮絶な戦死を遂げたことは土方ファンの方ならご存知のことと思う。
その函館戦争における最後の舞台となった場所と言えば、これまたご存知『(函館)五稜郭』だが、 実は日本にもう一つ、同じ築城方法によって建てられた城があるのだ。 それが臼田町にある『龍岡城五稜郭』である。
龍岡城の五稜郭は函館の五稜郭と同様、星型稜堡の洋式築城によって建てられた城である。 同時にこの城は、当時の龍岡藩主『松平乗謨(まつだいらのりかた)』が築城した日本最後の城でもある。 (元治元年(1864年)三月着工/慶応三年(1867年)四月竣工)
『龍岡藩』というのは明治維新後に改名されたもので、当時は『(信州)田野口藩』と呼ばれていた。 ちなみに『龍岡』という名前だが、乗謨が青年時代に漢詩を学んだときの雅号(=ペンネーム)の『龍岡』 にちなんで名付けられたものと伝えられている(のち明治4年に廃藩)。
乗謨は『大給(おぎゅう)松平氏』最後の藩主で江戸幕末には老中や陸中総裁など、 幕府の要職にあった人物だったがここではこの乗謨について解説していきたいと思う。
何故って? 色々調べていくうちにちょっとびっくりする発見をしたからなのです・・・。
乗謨は幕末の動乱期の慶応元年(1965年)に陸軍奉行の要職について軍務を統括し、 その後若年寄陸軍用掛となり、さらに翌年(1966年)老中格へと抜擢された。
同年、徳川14代将軍家茂が逝去した時は葬儀掛(=委員長)の大役を務め、その後、 陸軍総裁に就任したのだが、その時の彼は弱冠27歳という若さであった。
また、その年の暮れに慶喜が15代将軍に就任したが、そのわずか20日後に孝明天皇が崩御してしまい、 そのことがきっかけで大政奉還をすることになるのだが、乗謨はその交渉にも尽力した。
・・・とまあ、そんな感じで新撰組同様、幕末の動乱期を乗り切るのだが、色々調べていくうちに維新後、 彼がなんと『赤十字』で重要な役割を果たしてきたことが分かったのだ。
(長くなりそうなので続きは明日♪)
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