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2004/04/22(木)
意外な接点(後編)
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明治維新後、松平乗謨(まつだいらのりかた)は『松平』姓を三河の先祖の地名にちなんで『大給(おぎゅう)』と改めた。 さらに明治2年6月に龍岡藩知事に任命されたが、そのとき彼は乗謨の名を『恒(ゆずる)』と改名した。
明治10年(1877年)2月に起こった『西南戦争』では死傷者が続々と発生し、軍医および医療関係者が不足していた。 その当時、元老院議官だった『大給恒(おぎゅうゆずる)』はシーボルトなどから伝え聞いていた 『軍人救護会社』を作りたいと思っていた。
同じころ、九州佐賀藩出身で恒と同じ元老院議官の『佐野常民(さのつねたみ)』は慶応3年(1967年)のパリ博覧会と 明治6年(1873年)のウイーン大博覧会の2回にわたり、日本代表として渡欧していたときに知った、 赤十字活動の知識を持って帰国していた。
2人の意見は一致し、明治10年に当時の政府へ設立を願い出たが、残念ながら却下されてしまった。 二人の考えの中にあった「敵味方の区別なく救護する」という部分が当時の政府には理解されなかったのだ。 味方はともかく敵を助ける、というのはまだ当時の主流(の考え方)ではなかったのだろう。
しかし、同年5月に佐野が熊本の司令部で征討総督をしていた『有栖川宮熾仁親王(ありすのがわたるひとしんのう)』へ提出した 嘆願書が認められ、『博愛社』(後の赤十字社)としての活動を許可されたのであった。 (『博愛社』はその後、明治19年(1886年)に日本政府がジュネーブ条約に加盟したことに伴い、翌年に名称を 『日本赤十字社』に改名した。)
ちなみに発起人である2人は、ともに副総長に就任した。 そして嘆願書を提出した明治10年(1877年)5月1日は現在、日本赤十字社の創立日とされている。
・・・とまあ、今回、龍岡城五稜郭を築城した『松平乗謨』が日本赤十字社創立のきっかけとなった『大給恒』と 同一人物だったこと、また『(龍岡城)五稜郭』と『赤十字社』が一つにつながった、という事実に 驚きと感動を覚えたのであった。
そしてこの龍岡城の中(敷地内)には何と、母の母校(小学校)が今でもあるんです!
意外な接点ってまさにこのことだよなあ、と一人悦に入っている自分であった(笑)
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