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2004/07/27(火)
dono
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こんにちわ。 裏方でパーカッションのドノです。 本業はカメラマンです。 たまには真面目に書こうかな?
ピュタゴラスが言ったとされる言葉があります。 「人生は祝祭のようなものである。 競技するために祝祭に来る者もいれば、 商売を営むために祝祭に来る者もいる。 だが最良の人々は観客としてやって来る。 それと同様に奴隷的な人間は名声や利益を追求するが、 哲学者は真理を追究する。」
さて、この言葉の中で、 我々ゲリライブは何処に位置するのか? 私的な例を言うならば、 写真を撮る為にはファインダーを覗かなくてはいけない。 そして、被写体(とりあえず人と仮定する)を狙う。 被写体はポーズを取る。 アシスタントがレフ板を持つ。 スタイリストが服を整える。 ヘアメイクが化粧をキメる。 この誰もが全体を見ることは出来ない。 カメラマンが唯一全体に近い所を見ることが出来る。 だが、それも完璧ではない。 写真が出来上がり、印刷物である以上、 デザイナー、印刷屋へと撮られた写真は渡ってゆく。 その二者も出来上がりを見ることは出来るかもしれないが、 本になりページとなり本屋へと並んだ姿を見ることは出来ない。 そして、本になる。書店に並ぶ。 その時、消費者である作り手のことを意識しないでいい 読者がその本を手に取る。 そこではじめて、完成された全てを見ることが出来る。 我々作り手は、あくまで最終的な仕上がりを「予測」することしかできないのである。 そう言う意味で「最良の人々は観客」なのである。
話を戻すと、 ゲリライブとは何か? その全てであらんとするもの。なのではないかな?と。 自分たちの為に自分たちで準備し、盛り上げ、そして楽しむ観客となる。 そこに、自分たちより楽しむ本当の意味での観客が居る。 そうすることによって、はじめて「ゲリライブ」は完成すると思っている。
自己満足だけであれば誰でも出来ると思うし、 他人の自己満足を見せられるのは誰にとっても苦痛なはずだ。 観る者も満足できる自己満足は案外難しい。
我々は誰よりも秀でようとする競技する者であり、 富を得ようとする商人であり、 楽しもうとする観客であり、 名声を得ようとする奴隷であり、 真理を求めようとする哲学者でもある。
舞台と客席には物理的に1メートル近い段差がある。 だから何? たった1メートルで何が出来る? 観客と演者とは常にフラットな対等な関係じゃないの? オレらはいつでも観客になれるし、 観てる人々はいつでも演者になれる。
アレかコレかソレか、、どれか一つじゃない。 アレもコレもソレも、、全部選べば良いだけだ。
オレとお前、あなたと私、人生に差なんて無いのだ!
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