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2005/01/20(木) 袁術陛下万歳
テスト前だというのにゲームにはまってしまっている。掛川から借りた三国志9だ。三国志との出会いは、私の人生を狂わせてしまった原因の大きなひとつだ。おかげで歴史狂いになって、はては史学科なんぞに行くハメになてしまった(まあ日本史専攻ですがね)

 三国志に本当にはまっている人は多い。紫にも少なくとも、今西・平・武・深見とはまりまくりガたくさんいる。その魅力はいいつくされた感があるが、登場人物の多さだろう。そして平凡なキャラがなく全員個性的かつ魅力的という劇作家としてよくここまで書き分けられるものだというくらい書き分けているというのがすごい。これだけいれば思い入れをかける好きな武将も別れる。今西は孔明・趙雲にゾッコン。武は司馬い(漢字が出ない)だし、深見は孫権だ。三国志の演劇ができないのもイメージが固まりすぎてて、ちょっとでも違う役者がやると文句が出るからである(いくらうまくても董卓は痩せてたらできないからねえ)

 そんな私が好きな武将といえば、なんといっても袁術陛下だ。それを言うと多くの三国志を知る人がなんでやねんとなる。その通り袁術と言うのは後漢末という時代にあっても、かなりしょうもない群雄である。彼は漢王朝の名門袁家に生まれながら、独立後も戦をすればほとんど負けるという群雄だった。にもかかわらず「漢にかわるものは〜」とか言うわけわからん予言を勝手に自分のことと解釈し、玉璽(中国の皇帝しかもてないハンコ)を偶然手に入れたからってその気になって皇帝を名乗ったが、周りから総スカンを食らったうえ、民衆が飢えてるのに贅沢を尽くした結果滅んだマヌケな群雄だ。

 とにかくなんの実力もないのに皇帝を名乗るずうずうしさがステキだ。当然そんな彼は人気がない、中学以来何十人と三国志ファンを見てきたが好きだといってる人は一人もみたことがない。同じ悪役でも、董卓や呂布は一部では人気がある。まあ悪を極めた董卓や、圧倒的に強いがロマンスのある呂布などに比べて袁術は小悪党すぎるからだろう。だが、その小悪党ぶりがたまらなく、私は彼を袁術陛下と呼んで敬意を表している。袁術陛下こそ皇室を敬わない私は天皇も陛下と呼ばない(ましてや外国の元首を陛下という筋合いはない)ので、私が唯一陛下と呼ぶ人物である。

 と、いうわけで三国志を借りた時も当然袁術でプレーした。コーエーの三国志シリーズは小学校に1があったこともあり、そこからはまり。5・6・7は買ってプレーしている(3と8は人のをチョコっとだけやった)。7・8は全武将でプレーできる分ゲームの底が浅くなっていた。9では原点に帰って君主のみでしかできなくなって地味だが戦略ゲームの色彩が濃くなってかなりおもしろい。シリーズ最高傑作だと思う。

 190年1月、漢王朝をわがもの扱いする董卓に対し、反董卓同盟が結成され袁術の異母兄袁紹がその盟主に選ばれた。しかし・・袁紹・曹操・孫堅といた同盟の主力たる勢力の本拠地は董卓の領地とははるか離れた場所であった。しかし、袁術の本拠苑は董卓の本拠、洛陽・長安に挟まれた地、同盟国の各個撃破を図る董卓にあっては当然最初に狙われるのは必定である。援軍を頼みたくても、薄情にも送ってきやあせん。家臣をみても勇将紀霊を除いては軍事でも内政でも使えそうな奴がいない。いきなり四面楚歌である。

 なんとか役に立つ武将を得なくては。そんな彼にまず答えたのは甘寧という勇将だった。武に優れる彼は袁術軍団の中心となった。そして、袁術は在野に郭嘉という知略に優れた若者を見つける。郭嘉は天才でありその才能を充分に生かしてくれる主君を求めていた。そんな彼には、袁術のようなセコイ男は使えるには役不足であった。しかし、他に頭のいい武将がいない袁術軍団にあっては彼はなんとしてでも欲しい人材であった。袁術は家臣を総動員し、なんと14回も郭嘉の家を訪ねたのであった。さすがの郭嘉もここまで口説かれたのであってはクラっとくるものがあった。加えて郭嘉は天才だが女遊びが派手な男だったので、エロ仲間の袁術とはウマがあったのかもしれない。

 甘寧・郭嘉を得た袁術は、座して死をまつよりも先手必勝にうってでた。董卓の防御が整う前に長安を占拠しその領土の分断に成功したのだ。しかし、それは他の群雄を刺激した。反董卓同盟に参加した群雄はそれを喜ぶどころか出し抜けた袁術に嫉妬し一気に大乱戦になった。洛陽は曹操に占拠され、皇帝を擁立したかと思ったらすぐ袁紹が洛陽を占拠し皇帝も袁紹の元へ。勢いにのった袁紹は曹操を滅ぼす。それが袁術の転機となった。曹操が滅んだことにより、元曹操配下の曹仁・夏侯淵・楽進・宇禁・旬幾といった勇将・知将、そして文武両道の曹操自身を配下にすることができたのである。そして袁紹との骨肉の争いに突入。192年洛陽を占拠、皇帝を手の内に、帝位を狙う袁術はそれを廃立しようとするも、まだ弱いのでとりあえず皇帝の配下となることにある。その後の袁紹との戦いは一度落とした都市を再び奪われるなど一進一退、くわえてび長安を占拠しようとする董卓の残党に攻められるなど、なんども危機に陥るが、袁紹が公孫賛との戦いで戦死したのを気に大逆転198年董卓の残党とともについに滅ぼした。その時点で中国は北が袁術、南が孫堅という状況だった。国力は互角だったが、呂布・曹操・劉備、そしてその元配下たちを吸収した袁術軍団は人材の面で圧倒的に有利であった、加えて南蛮族や山越族など積極的に異民族を利用し、201年3月ついに、孫堅のあとをついだ孫策を滅ぼし、中国を統一したのであった。

 統一後は袁術は念願の帝位につき「成」を建国。呂布・甘寧の活躍で、万里の長城を越えシルクロードに進出大苑国(今のイランあたり)まで征服したが、216年袁術が崩御すると2代皇帝袁耀は曹操の傀儡となりほぼ国を乗っ取られ、あげくに北方の異民族鮮卑に侵入され、東西に分裂してしまう。20年しかもたないとはさすが袁術らしい


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