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2008/04/19(土)
元親の野望 完結編
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信長の野望を長宗我部家はクリアした。1575年長篠の合戦シナリオではじめ、1597年3月津軽家を降伏させ天下統一を果たしたのであった。かかった年数22年。
1575年、一条家を倒し。四国統一を目指し、西園寺、河野を倒し伊予を得ると、機内領を追われた三好を滅ぼし1580年四国を統一、その間に毛利という強力な同盟相手を得、四国統一時ちょっかいをだしてきた宇喜多家討伐を目的に岡山城を攻略し本州に足がかりを得、赤松家の播磨姫路まで足がかりを得る(配下に納まった直家以下宇喜多家臣団と黒田官兵衛その後の主力となる)
本願寺・鈴木を倒し紀伊半島西部に足がかりをえた頃すでに北陸関東にまで勢力を伸ばす織田家に対し、上杉・武田・波多野・毛利などにより包囲網がしかれたのだ。長宗我部も参加し、83年電光石火で二条城を攻略し上洛を果たすと、近江・伊賀上野・越前敦賀まで一気に攻略する
が、伊勢亀山城決戦では敗北を喫し兵力を失うと、85年の大垣城をめぐる攻防では直前に武の柱弟親貞が病死し、重臣福留親政・宇喜多直家も戦死し一度手にした大垣城を失う。敦賀港防衛戦はなんとか勝利するも多数の戦死者を出し、北陸攻略もままならず、さらに86年には広げすぎた版図が反発され反対に反長宗我部同盟が成立。裏切った波多野を滅ぼし、毛利の力で丹後も奪取、伊勢は3度目の攻防でなんとか奪取するも5年もの間版図をほぼ広げられずにいた
天下が動いたのは88年であった。織田家と徳川家の同盟が切れたのを見はかり、娘を家康の後妻に差し出すことにより差徳川との同盟が成立したのだ。これで、一気にがかわる。伊勢から弟親泰率いる軍団が一気に徳川との共同作戦で清洲を攻略すると、すでに大垣城を奪還していた長宗我部は、最大の懸案だった岐阜城を89年ついに陥落させる。甥親実・黒田・鈴木勢らはその間に越前を奪取に成功。
しかしおだの主力は加賀大聖寺に集結していた。ここがなかなか堅い。そこで元親は志なのが徳川領となり美濃が安全になったことから自ら、飛騨・越中とせめ富山城まで落とし越後以東の織田領と連絡が取れないようにしたついに越前・越中からの加賀挟み撃ち決戦がはじまった。半年以上かかった戦いであったが、ついに勝利。信長を能登に追い詰めると輪島港決戦で捕らえ処刑に成功。信忠もすでに戦死していたため、若干12歳の秀信が継ぐこととなったが、織田家はこれで弱体化することになる
その間に伊予板島港や今治港においては桑名吉成ら留守番勢力、反長宗我部同盟に参加していた急流勢力大友・伊東・島津らからの攻撃をひたすら防戦していた。しかし、反長宗我部同盟が切れた時に大友と一時的に停戦したことが、15年もの間同盟していた毛利との関係をこじれさせた。そこで一気に毛利領に侵攻。1年もかからずに中国地方を統一したのであった。
さらにあけて92年。反長宗我部消滅で再び反目しあった大友・島津の争いの間隙をつく形で関門海峡と豊後水道から2方向で九州侵攻をはじめた長宗我部。途中博多をめぐる玄界灘海鮮で三男津野親忠が戦死するという痛ましいことがおこったものの、94年待つまでには大友・島津を軍門に下す
その間徳川との同盟が切れた時には容赦なく侵攻ついでに風前の灯だった武田もせめ東海を統一。越後まで進出し、95年夏織田家と最後の大決戦深志城決戦も3ヶ月以上かけ勝利すると、もはや長宗我部に抗するような勢力はなくなった。武蔵で織田家・会津で上杉家を滅ぼした以降は、北条・佐竹・相馬・伊達・最上・秋田・蠣崎などはほぼ抵抗らしい抵抗などせず降伏をする。あけて1597年正月、最後に残るは弘前の津軽家、最初は抵抗するも残りの兵士1万を切った3月ついに降伏をしたのであった。
とまあ、よくかけたもんであるが、こういうゲームて最後に家臣の誰々にこの領地を与えるとかできたらいいのに、クリアには関係ないがこうやって労をねぎらえるとうれしい できれば本拠を京都におき
山城・摂津・河内・和泉・近江・丹波・大和・本国土佐、金山銀山のある佐渡・甲斐・但馬・石見を直轄とし、久武親直・高島政重・立石直資中島可ノ介・滝本寺非有などの文官を派遣する
二男親和に備前岡山、三男親忠(戦死したけど息子に継がせた設定で)に加賀金沢・四男盛親に尾張名古屋を与え御三家とす
筑前・筑後に弟香宗我部親泰、武蔵・上野に甥吉良親実、越後に従兄弟の比江山親興、会津に娘婿藤堂高虎、長門立花宗茂と交通の要には一門衆を配置
譜代家臣である江村親家には播磨、福留隼人は美濃、本山親茂には越前(ちなみに親和・親忠・親興の一門、本山、中島、非有は実在の人物なのに今作ではカットされてるので登録して作った)、谷忠澄は伊勢、久武親信が紀伊、豊永勝元が阿波、桑名吉成が若狭、吉田政重が丹後、吉田康俊が讃岐、など、畿内本国地周辺を固める
譜代ではないが、古くから使え対信長戦で主力として活躍した宇喜多家は肥後、鈴木家は肥前など、国替えも気候が暖かくて住みやすい九州の石高が高い国を与える。黒田官兵衛も活躍したが、史実で秀吉が警戒した通り、元親も警戒し、豊前18万石に留める方向で行く。また、山中鹿ノ介の活躍も目立ったが、鹿ノ助のキャラからすると山中家を大名にするより尼子家を出雲で復活させた方がしっくりくる。
毛利・徳川は最後は攻めたとはいえ辛い時期の同盟相手で最後は降伏したので、それぞれ安芸・備後。三河・遠江2カ国安堵。自らの手で滅亡した織田・上杉などは取り潰しだが、降伏した大友・伊東・北条・佐竹・相馬・伊達・最上・秋田・津軽・蠣崎などはそれぞれ、最初の1カ国のみ本領安堵。島津・武田も滅亡後、登用され強力家臣団として取り入れられたので取り潰しはまぬがれたが、薩摩・甲斐の本国は没収しそれぞれ陸中や旧南部領という寒い場所に押し込めることとする。
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