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2011/06/25(土)
高間の見解1
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唐仁原の日記による爆弾投下で、鬱積していた若手の意見が雪崩を打って来た感が有る。もしかしたら、ここ数日で京都演劇界で革命が起きるかもしれない。いい意味での比喩表現での革命じゃなく、本当の意味の革命ね。日和見が得策かもしれんけど、今まで色々書いてきたのでここはのっておく。
まず、唐仁原の日記においての指摘でいえば、私はすでに唐仁に非難されるに値する行動をとっている同世代にふくまれるであろう。自分には周りの人より才能があるので、どうにかすれば売れると思ってるし、この文章も含めて中身のない頭良さそうな文章を書いて、「高間さん、賢いですね」ていわれたがるし、名前が売れてる人と絡むというか、来年あごら行くとかそういう抜擢されると舞い上がるし、そしてこれは一番嫌だがプロデューサーとしての能力もないのに、若手をうまく食ってやろうと考えていない事もない。私が学生演劇祭にアドバイザーという中途半端な形で関わったのは、学生の為を思ってなんてのは偽善、具体的にどうしてやろうと考えていくほ頭も良くないし、ワルでもないが、自己利益、団益につながるものがあると踏んで関わった。だって、秋元康尊敬してるもん、あんなんなりたいもん。次のコントでも「21世紀枠」とか言って年下の劇団に出てもらうのだが、こんなん面倒見てる感をだそうとか、彼ら目当ての客を呼ぼうとかさもしい考え極めりだもん(一番の理由は、あるコントとコントの間が着替えが厳しいので、その間に別な団体にやってほしいからだが)
星野監督のように、「××はワシが育てた」って言いたい気持ちは、誰しもが持ってるものだろう。本当見苦しいよな星野。
あと、人のやらないこととかやりたいって気持ちはわかる。わしかて、プロレスだディベートだと、しょっちゅう人をびっくりさせたいってことをやるしね。
そのうえでいえば、あまり適切な分類ではないが、演劇に「面白い演劇」と「面白くない演劇」があって、横方向の軸に「演劇史的に価値がある芝居」と「価値がない芝居」があるとしよう。「演劇史的に価値がなく、面白くない芝居」はまず論外として「演劇史的には価値があるが、面白くない芝居」と「演劇史的に価値はないが、面白い芝居」を比較して、前者に重きをおかれている現状は非常に不満である。私はそれどころか、「演劇私的に価値がないが面白い芝居」と「演劇史的に価値があって面白い芝居」なら同価値、面白い度が高い方が上だと思っている。面白くなければ、役者がうまかろうが、スタッフがよかろうが苦痛だろう。
もちろん、その時点で面白くないが、その手法を発見した事により、のちに面白い作品に繋がる演劇というものの価値は否定はしないが、少なくともその時点で私が面白いと思えない芝居は見に行きたくない。
とはいえ、どんな人間がどんな作品を作ることも表現の自由であって、いくらなんでも「同じ演劇というジャンルでつまらないものを作られると、たまたまその芝居を最初に見た人が演劇そのものをつまらんという危険があるから迷惑だ、やめろ」なんてごう慢な事は(思わない事ないけど)いわない。そんなこというと、気にいらない言論を封殺する表現規制派とかわらんからだ。石原にはなりたくない。
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