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2014/07/02(水)
表現としての自殺
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新宿の焼身自殺未遂の件は、ネトウヨはチベットの高僧の自殺とどう整合性をつけるのかなあと思ったが、まああまり触れないですますのかなと思ったが、なんの理由も示さずに「言うまでもなく同一視するなんて馬鹿げてる」とだけ書いてるのが多かった。言ってくれよ、わかんないよ
まあ、主張がどうこうというより、「表現としての自殺」というものに考えさせられた。自殺を大まかに2種類あって「もう生きて行く気力がない」のと「表現」だろうと思って、しかしまあ前者はまだ理解出来ないことはない、ほんまに絶望的になったこともあるし、なのだが表現はなあと思う。
武士の切腹もそうだし、無実の訴えとか、そういう表現としての自殺ってのは、表現者として興味深いことである。「本当は死ぬ気のないリストカット」は、評価を得られるという点では表現だけど、本当に死んじゃったら評価がわからない。私は、とにかく評価が気になって気になって仕方ないので評価を気にしない表現者は不思議である。
さらに、労力対効果にあわない。1回死んじゃうと、次の表現が出来ないのはもちろんだが、自殺するのは痛い。私は痛い事が嫌いだから、辛い。私がプロレスをしないのも痛いのが嫌いだからだ。積極的に痛い技を出してしかしそれ以上の喜びを得るシモンさんやちっくはすごい感性をしていると思う。
その点でやっぱり三島の切腹はすごい表現だと思う。思想に共感はしないが、あんなに面白い死に方はない。「自衛隊に決起を促して切腹」は面白すぎる。で、「面白い」て書くと、「馬鹿にしてんのか」て怒る人が多そうだが、とんでもない最大級の褒め言葉である。私にとってなにより重要なのが面白いかどうかである、本当に面白いのためならなにを犠牲にしても良いとは思うからだ。
その点で、三島切腹以上に面白い自殺の仕方は思いつかなくて悔しいからそれまでは自殺することはないのでご安心を
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