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最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

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2011/04/24(日) 「復活〜道は必ず開かれる」大嶋博道牧師
 イースター記念礼拝 (聖書)出エジプト14:21〜22/マルコ16:1〜6

(はじめに)
 イースター(復活祭)おめでとうございます。 
キリスト教は「復活」の宗教と言う事が出来ます。「回復」と言ってもいいと思います。
闇から光りへ、悲しみから喜びへ、不安から平安へ、絶望から希望へ、そして死から命へ・・・。特に、復活のキリストを受け入れ、信じるならば人生は必ず変えられるのです。イ−スタ−に当たりこの事を学びましょう。

(道が開かれた〜4つの約束)
 聖書は私たちに人生の壁を打ち破る秘訣を教えています。あなたを閉じ込めている苦しみや不安、絶望の扉が開かれるメッセ−ジが聖書では語られています。「道は必ず開かれる」という具体的な事例は、
@紅海の水が真っ二つに分かれ、道が開けた(出エジプト14章21節) 
 出エジプトの途中、目前に海があり背後からエジプト軍が追いかけてくる絶体絶命の苦難の中でモ−セが手を海に向かって差し伸べると紅海の水は分かたれ、イスエラエルの人々が通る道は開かれたのです。

Aイエスを閉じ込めていた「死の扉(岩)」が開けられた(マルコ16章1〜6節)
 週の初めの朝、女性たちが墓に葬られているイエスに香油を塗るために行ってみると既に石は脇に転がされていました。墓の中には死が存在します。ところがイエスはこの墓の中から甦られたのです。私たちの人生も進むべき前に障害になる大きな岩が横たわっている時がありますが、神様はこの石を取り除いて下さるのです。

Bペテロの牢の扉が開き、門が次々に開かれた。(使徒12:1〜11)
 迫害の中でペトロは牢獄に閉じ込められていましたが、天使の導きで扉は開けられ、ひとりでに門は次々開き、にペテロは外に出る事が出来ました。私たちが何かに捕らえられている時にも神様は前に進むことが出来るように道を開いてくださるのです。

Cストレスから解放され、生きる希望が与えられる。(コリント第二1:9)
 これはパウロの体験。ストレスでひどく圧迫され、生きる望みすら失せてしまい、死の宣告を受けたような時にも、神は死の危険から救ってくださった。だから神に希望をかける事が出来るのです。すると、道は必ず開かれるのです。

(将来への道が確かに開かれるのですから・・・)
これらの事から次の2つの事を学びましょう。
@思い煩いを捨てて感謝をもって主に委ねる事が第1の事です。(ピリピ4章4節)
「明日の事を思い煩うな」とみ言葉にあります。神はあなたの明日に必要なものを備えてくださるのです。
A「神の国と神の義を求める」生き方をする事が第2の事です。(マタイ6章33〜36節)
神はあなたの道を必ず開いてくださるのですから、思い煩うことなく、一途に神の国と神の義(信仰に生きる)を求めつつ、信仰に生きましょう。祝福をお祈り致します。

2011/04/17(日) )「わたしが保護したので」畑中康雄勧士
 信徒礼拝 (聖書)ヨハネ17:1〜12
(ユダの罪から学ぶ)
 ユダの犯した罪から私たちが学ぶ事は
@ユダは「財貨」に執着心がありました。→聖書は私たちに大切な財貨を自己の欲望を満足させるためにだけ所有するのではなくて「全面的な献身のもとに献げる良い用い方」を身につけなければならない事を教えています。(マタイによる福音書19章16〜22節)
Aユダは「悔い改め」をしていません。→聖書は私たちに対して罪に気づいた時には、今までの生き方を180度逆転し生き方そのものを根本的に変える事が必要な事を教えています。(使徒言行録2章38節)
Bイエスと共に十字架につけられた犯罪人の1人は死の直前に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とイエスに約束されました。→悔い改めをしなかったユダとこの犯罪人の物語は罪に気づいた時には私たちの悔い改めを待っていてくださる神様に赦しを乞う事が大切である事を教えています。(ルカによる福音書23章39〜43節)

(疑問に対する1つの答えと期待)
 イエスが十字架に架かられた時に「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしようとしているのか知らないのです。」と「彼ら」のために祈られました。この「彼ら」にユダは入っているのでしょうか。注釈書にはユダは救いの中には入っていないと書かれています。その根拠の1つが「私が保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。」と言う本日のみ言葉です。しかし、もし「滅びの子」が「ユダ」ではなくて私たちに代わって十字架に架かってくださったキリストが「滅びの子」ではないのかと考える事があるのです。実にキリストただお1人が「滅びの子」となってくださったからこそ、本来は滅びの子である私たちが誰1人として滅びる事がなくなり救いの約束のみ言葉が成就したのではないかと…

(罪深い私が救われる希望)
 キリストを信じますと、告白する事により救われるという約束が与えられている新約の時代に生きる私たちにとってイエスを裏切って罪の悔い改めをしないまま自殺してしまったあのユダさえもイエスの弟子であったと言う事で救われるとしたらこの罪深い私もイエスを受け入れていると言う事によって救いに入れられると思うとどんなにか心が安まるかと思うのですが、これは身勝手な、危険な考えなのでしょうか。
→キリストの大きな愛の内に入れていただくために私たちがしなければならない事はただ1つ「悔い改めてイエス・キリストを受け入れる」事です。そうすれば私たちは「わたしが保護したので」と言われる保護の内に入る事が出来ると思うのです。

2011/04/10(日) 「旧約聖書の中心」石黒則年牧師
特別礼拝 (聖書)申命記34:1〜7

(旧約聖書の中心となるみ言)
主イエス・キリストにとって最も大切な聖書のみ言はマタイによる福音書22章38節にある「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」のみ言葉です。この事はこれに続く38節で「これが最も重要な第1の掟である」とある事でも分かります。
これは申命記6章4〜5節を引用されているように最も大切な教えが述べられている聖書は申命記であり、中でも申命記6章4〜5節がその中心となるみ言葉です。
この事は、日本で初めて宣教がなされた時に宣教師が「デウスの神は愛の神である」と宣べ、神様を愛する事〜神様を大切にする事が大事であると教えている事からも分かります。
ここでは神を大切にする事と隣人を大切にする事が教えられました。

(第1のポイント/ト−ラ−)
今日のメッセ−ジにはポイントが2つあります。その1つがヘブル語原典のト−ラ−(教え)です。
ヘブル語原典の時代のト−ラ−(教え)は「罰則」が伴わない教えであり、それが現在の「律法」となった時点で「罰則を伴う」ものとなりました。ここのところが旧約聖書を理解する上で大切な事です。元々はレビ記も申命記も「ト−ラ−」に属し罰則を伴わない「教え」でした。旧約聖書時代のト−ラ−は人がより豊かな実を結ぶような生活の教えであり、キリストはこの精神を取り戻すために来たと言われています。キリストは人々を罰するために来られたのではありません。
より豊かな道がどこにあるかと言う事を教えるために来られたのです。

(第2のポイント/申命記の大切さ)
第2のポイントは「申命記の重要性」についてです。イエスに対する誘惑物語がマタイによる福音書に出てきますがこれも申命記に出てきます。即ち
@荒野での誘惑物語(4章4節)は申命記8章3節に
Aエルサレム神殿での誘惑(4章7節)は申命記6章16節に
B高い山での誘惑(4章10節)は申命記6章13節に
と全ての誘惑が「申命記」を根拠にしています。イエスは大切なト−ラ−(教え)の中でも申命記を良く読んでおられたのがこの事から分かります。即ちこのことからも旧約聖書の中でもその中心は申命記であると言う事がわかります。イエスはこのみ言を大切にされていたからです。即ちこの事から旧約聖書の中心は申命記であると言う事が言えます。

2011/04/03(日) 「さらなるレホボトを目指して」大嶋博道牧師
 教会創立20周年記念礼拝 創世記26:15〜22

(はじめに) さらなるレホボトを目指して」」大嶋博道牧師
に寄せて
今から20年前の1991年4月に教会が創設されました。民家の屋根に十字架を付けた会堂でした。
現在の会堂が与えられたのは1996年9月の事でした。そして会員もたくさん加えられました。
本日はこれらの事を感謝して教会創立20周年記念礼拝を守ります。

(レホボトとは)
 本日の聖書のみ言葉の中心は22節です。神様は私たちの教会をレホボトとしてくださいましたが、私たちにとって本当のレホボトとは何なのでしょうか?創世記が書かれた時代では井戸はライフラインでした。水を確保する事は生きるためには大切な事でした。アブラハムが掘った井戸をことごとく塞がれ、またイサクが掘った井戸も原住民によって埋められました。しかし最後に掘った井戸は争いが起こりません
でした。そしてその井戸は 「レホボト(広い場所)」」と名付けられました。

(私たちのレホボトとは)
 この20年間、主は私たちの教会をレホボトとしてくださいました。具体的には
@「神の豊かな祝福」がありました。「祝福」とは神の霊的な恵み、ご配慮であります。さらに、神が共におられることです。そして、必要が丁度(有り余ることなく、不足することなく)満たされることなのです。
A「本当の居場所」がここにあると言う事が示されました。皆さんの居場所はこの教会にある事が示されました。
B「自由」にされました。解放されました。悪しき習慣から、閉塞感から解放され、私たちは自由にされました。

(さらなるレホボトを目指して)
 今日の聖書のみ言葉によるとイサクが最後に掘った井戸には争い事が無かったのでそこはレホボトとなったのです。
 新たにレホボトされるためには、みことばに聴き従うこと、決して争わないこと(敵意を抱かない)、そして日々、祭壇を築いて主を礼拝することです。私たちも今日をレホボトと感謝して更に25年、30年を目指して歩み出しましょう。主が今まで助けてくださったこと(エベン・エゼル)そしてこの開拓伝道を広げて下さったこと(レホボト)を心から感謝しましょう。


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