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最新の絵日記ダイジェスト
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2004/10/31(日) 「賜物を生かす奉仕」(聖書)Tコリント12章1〜11節 畑中康夫勧士
●「奉仕」とはどういう意味でしょうか。辞書で「奉仕」と言う言葉を調べてみますと「謹んで仕える事」とあります。
では私たちは誰に謹んで仕えるのでしょうか。

●「仕える」と言うからには「主人」が必要です。そして、その主人に奉仕する者は上の人が「権力」(有無を言わせない権力)によって奉仕させるのではなくて「権威」(自ずからそうしたいと思わせる人格)によって奉仕する事が必要だと言うのが最近の考え方のようです。

●私たちは、聖書を通して「神に仕えるように人に仕える」「一番上になりたい者は皆の僕になりなさい」と教えられています。
マタイ20章26節〜27節の聖書注解によりますと「…イエスが建てられる新しい国においては、他に仕える人が偉い人である。天国は、支配者が被支配者の上に君臨する古い秩序ではなくて、人の子(イエスキリスト)が罪人のために苦しみ、その敵のために死ぬと言う全く新しい秩序の始まり、即ち贖いの言葉の意味にある奴隷や捕虜を解放するために支払われる代金としてご自分の命を人間のためにご自分を贖ってくださったそのイエスの贖いによる奉仕のできる僕とならなければならないのです」と、あります。

●さて、今日のみ言葉には賜物の事が記されています。この賜物を生かす働きを私たちがする時に、私たちは「権力者」が行うようにではなくて、「権威を持つ者」が行うように「仕える人々」におのずからそのようにしてみたいと思う思いを起こさせる心で奉仕する事が必要ではないのでしょうか。

●様々な賜物を頂いている私たちが全体の益となるために、その賜物をまさに「権威ある者」のような仕方で奉仕しなければならないのです。そして付け加えるならば〜これは私の勝手な持論なのですが〜キリスト者の最大の、そして最低の奉仕とは礼拝に出席する事であり、「権威ある者としての奉仕」という事から言うと「私が礼拝に出席する」と言う奉仕を通して「隣人が礼拝に出席してみよう」と思う様なそんな事が可能となる礼拝出席〜奉仕が出来れば素晴らしいと思っています。皆様方が全体の益のなるために1人1人の上に分け与えられている賜物を「権力者」のようにではなくて「権威ある者」が行う様な奉仕として「霊的な賜物」をお使いになるようにと願っています。





2004/10/24(日) 「豊かに実を結ぶ生涯」 (聖書) ヨハネ15:1〜10 大嶋博道牧師
(聖書) 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」  

● “実を結ぶ”とはどういうことか?
 元々、「実を結ぶ」とは、季節が訪れて植物の果実がなることで、人生に当てはめれば、努力の末、良い結果すなわち成功者になることです。具体的には、名誉や地位を得、有り余る財を蓄え、物質的に豊かに恵まれることでありましょう。
 しかしながら、現実には、実を結ぶどころか、子育てに失敗したのではないかとか、仕事を立派に成し遂げた充実感がないとか、いったい今まで自分がやってきたことは何だろうと問い直したり、時には失望感や喪失感を味わう事の方が多いかも知れません。
 ポール・トウルニエは人生の四季の中で「充実した人生とは、私たちが日々生じてくる様々な問題を解決した後に初めて開始するするのではなく、勇敢に課題と取り組むという姿勢の中にすでに存在している。」と述べています。
 聖書的に言えば「自分に与えられた神の聖なるご計画(み心)を知って、与えられた賜物をいかに活用して、神と人とに謙虚に仕えてきたか?」ということにあるのではないかと考えています。つまり、「結実」とは得たものよりも与えたもの(失ったもの)に目を向けるべきものなのです。

● どうしたら豊かな実を結ぶことが出来るか?
 冒頭の聖書のみ言葉のように、イエス・キリストは「ぶどうの木と枝の譬え」をとおして、実を結ぶためには「わたしにつながり続けなさい」と繰り返し語っておられます。
今朝のキーワードです。「つながる」を意味するギリシャ語の「メノー」は留まる、結びつく、そこに居り続けることを意味する言葉です。
 イエス・キリストにつながるとは、信じること、すなわちイエス・キリストに人生を委ねて生きることです。具体的には、日々の祈りと聖書のみ言葉への傾聴、日曜ごとの礼拝生活、つまり、
生活のすべてにおいて「神中心=神第一」に生きることです。
 一言で述べれば、豊かな実は、ただイエス・キリストの十字架の贖いに立脚し、そこに立ち、そこから派遣され、また底に戻るリズミカルな信仰生活にあります。

● 豊かな実を結んだらどうなるのか?
 結論から言えば、他者のニードに喜んで「応答する」キリスト者にされます。
あのルカによる福音書12:13以降に「愚かな金持ち」のたとえが記されています。
彼は豊かな豊作の恵みを独り占めして、今までの倉を取り壊し、はるかに大きな倉を建て、そこに収穫物や財産をしまい込み、魂の安住を求めます。人間的に見えれば幸せそのもので
す。しかし、神の側から見れば「愚かな者よ、今夜おまえが死んだら、おまえが蓄えた財産はだれのものになるのだ」との厳しい叱責と警告の最も不幸な状態です。
 この例えのポイントはこうです。「この金持ちの男には収穫物を共に喜び合う友がいなかったこと、人生の幸せを分かち合う他者をもってなかったことです。
 豊かな実を結べば、必ずそれを分かち合うために他者に応答します。つまり、神の愛を、救いの喜びを、神のヴィションを、そして与えられた賜物を出来るだけ多くの人々と共有するのです。
まとめ:
 結局、「実を結ぶ生涯」とは、偉大な何かを成し遂げたことでもなく、どれだけ多くのものを蓄えたかということでもありません。
 失敗や挫折を繰り返しながらも、悩んだり迷ったりしながらも、信仰によって主イエス様に留まり続け、自分に出来る精一杯を真実に生きてきたかどうかです。
どれだけ得たかでなく、どれだけ分かち合ったか!そこに真の豊かな実りある生涯あります。

2004/10/17(日) 「わたしの居場所」 (聖書)ルカ2:41〜52大嶋博道牧師
序 論:
●今日のみ言葉の中心は49節「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前」という言葉にあります。イエスの少年時代(12歳)の記事を書いているのはルカ伝のこの箇所だけです。この他の聖書には誕生物語と公生活の記事しか書かれていません。
●今日の聖書によると
@(41〜42節)「幼い時からの信仰生活の大切さ」が書かれています。当時の成人式は13歳の時に行われていたので、その年になるまでのイエスはエルサレムに上る必要がなかったのですが、イエスの両親は毎年過越祭にイエスを連れて行っていました。
A43〜45節では「イエスの両親はイエスを見失い」ます。帰路1日分の道程を歩いた時にそれに気づき「3日目」にエルサレムの神殿でイエスを発見します。そして、
Bそこでは(45〜47節)イエスは学者達の話しを聞いたり、質問をしたりしておられます。
C48〜49節によると両親はイエスの事を心配して探すのですがそこでイエスは今日の中心となる49節の言葉を言われます。
本 論:
●母マリアは我が子を捜すことで夢中だったので、イエスが言われた言葉を理解することは出来ませんでした。イエスは自分が迷子になったのではなく、「私は父の家にいる」と、人間存在の根本に触れることをマリアに答えられたのです。それは神殿という建物を指すのではなく、むしろ「わたしの存在は父なる神のもの」という「所属」を意味したのです。
 イエスの両親はイエスを自分の子どもとして育てていたのでしょうが、今日のこのみ言葉から判る事は「イエスは神の子」だと言う事です。
さて、今日のみ言葉から2つの事を学びましょう。
(1)私たちの居場所は「十字架」のもとにあります。
 そこはイエスが私たちの罪を贖われた聖なる場所です。救いと永遠のいのちの根源です、私たちはそこに留まり続け、そこにたち続けたいと思います。ルターも「我、ここに立つ」と告白しました。
(2)そして最終的に、私たちの居場所は「天国」です。
 今の住まい〜居場所は一時的な仮住まいなのです。そして何れは「天の国に入る事」、「私の国籍は天国にある」(ピリピ3:20)とあるように天国が私たちの本当の居場所となるように熱望しながら信仰生活を過ごしたいと思います。
皆さんの上に神の祝福と平安をお祈り致します。

2004/10/10(日) 「アハブと流れ矢」(聖書)列王記上22:24〜38(ガラテヤ6:7)大嶋博道牧師
序 論:
 列王記には、王の勃興と滅亡の記録が歴史に沿って順番に列挙されてあります。
まず、ダビデとソロモンが登場します。ダビデやソロモンによって「統一王国」として堅固な国を維持し、安定した平和を保っていたイスラエルは、やがて二つの王国に分裂を起こします。南王国ユダ(2部族=首都エリサレム)ともう一つは北王国イスラエル(10部族=首都サマリヤ)です。
 本日のメッセージの本論に入る前に、少し背景になる幾つかのことをお伝えします。
(1)アハブ王について
 テキストに登場するアハブは北王国イスラエル7代目の王で、聖書中では「悪王」の代表として有名な王様です。アハブがどれだけ悪い王であったかは列王記16:29〜33に記されています。
@高台に神殿を設け、その中に金で造った偶像を置いて、レビ人でない民の中から祭司を任命し、自らも神殿に上り香をたいた。
A異教の国ツロフェニキアからイザベルという女性を自分の妻に迎えた。彼女は嫁いできたイスラエルの国の田舎くささにうんざりして、自分の国のハデな文化を持ち込んだ。しかも、フェニキアの偶像の神「バアル・メルカルト」を運んできて、宗教的シンボルとしてイスラエルの民にこの偶像崇拝を勧めた。アハブ王がこの悪女イゼベルに感化を受けたのはいうまでもないことです。
(2)アハブ王と預言者ついて
 このような偶像崇拝を強要する政策に断固として反対の声をあげたのが、唯一の主なる神に信頼する預言者たちでした。その代表的な預言者が「エリヤ」であり、今日のテキストに登場する「ミカヤ」でした。
 預言者たちはアハブ王の罪を厳しく指摘し、神の審判を警告します。
(3)本日のテキストの要約
 アハブ王は南王国ユダのヨシャファト王と組んで戦いに出かけました。彼は戦いの最中、敵の兵士がなにげなく射た矢が彼の腹に命中したのです。傷は深く、結局、彼は夕方になって出血多量で死んでしまい、ついに葬られました。預言者の言葉は成就したのです。
本 論:
アハブ王に突き刺さった「流れ矢」に学ぶこと
神はアハブに「審判」の矢を射られた―神はあなどられるお方ではない!
再三の警告にもかかわらず、神をないがしろにし、侮り続けたアハブ王に神はついに審判の矢を射られたのです。神を侮る(軽視する)ことがどれほど大きな罪かということを旧約のソドム・ゴモラの滅亡から、戦利品を着服したヨシュア記のアカンから、そして聖霊に導かれていた最初の教会への献げもので欺いたアナニヤとサッピラから学びたいと思います。
 私たちは神からいのちを仮受けしています。いつの日か精算する時が訪れます。その時に、「良き忠実なしもべよ、よくやった」(マタイ26:21)と、神様から称賛されるような信仰生活を心がけたいものです。
まとめ:
最後に、エペソ6:10〜18を共に読みましょう!
アハブの胸に突き刺さった「流れ矢」を私たちの教訓にし、信仰によってこの世の悪に立ち向かい、日々、勝ち得て余りがある「圧倒的勝利者」としての歩みを目指したいものです。皆さんの上に神の豊かな祝福をお祈り致します。

2004/10/03(日) 「足腰の強い教会へ」 (聖書)ローマ6:15〜23大嶋博道牧師
10月3日総員礼拝説教
序 論:
 まず、「足腰の強い教会」とは何を意味するか?明らかにしておきましょう。
「足腰が強い」とは、建物がしっかりしているとか、会員数や礼拝出席者数が多いとか、財政面で充実しているというような〔外面的な強さ〕ではないのです。また、よく祈るとか、よく伝道するとか、よく奉仕するとか、よく献げるとかいうことでもないのです。もっと根本的な足腰の強さは、クリスチャンが、また、教会が神様から“召された者”として問われる「内面的なもの」すなわち「質」にあります。言い換えれば、「信仰の強さ」でありましょう!それは、
@主イエス・キリストの十字架の贖いに立脚した信仰
A神のみ言葉に立脚した信仰
B“愛”に立脚した信仰
 実はこのような教会は、聖霊を受けた2000年前の最初の教会の中に見られました。
使徒言行録2:43〜47
(1)信者たちはみな一つになって、すべてのものを共有した。(分け合う群れ)
(2)心を一つにして神殿に参った。(礼拝の群れ)
(3)家毎に集まってパンをさいて、喜びと真心をって食事をした。(愛餐−交わりの共同体)
(4)神を賛美していた(感謝の群れ)
(5)民衆から好意を寄せられた。−好かれていた (証の群れ)

本 論:
さて、献堂8周年を迎えた私たちも「足腰の強い教会」を目指して進みたいと思いますが、そのためには、何が求められるでしょうか?幾つかをお伝えします。
(1)「悔い改め」が謙虚になされる教会
 ここでの「悔い改め」とは、自らの罪深さ、弱さを赤裸々に主のみ前に言い表すことです。試練や重荷の中で、またこの世の多忙な生活の中で、神を信じ抜くことが出来ず、祈ることさえ出来なくなる自分の弱さを素直に認めることなのです。言い訳ではなく、心の底から自らの欠けを、至らなさを言い表すこと。 
(2)感謝と喜びにあふれた教会
 クリスチャンでない人がクリスチャンに惹き付けられるのは、最終的には、信仰生活において本当の感謝と喜びに満ちあふれている姿であります。卓越した聖書知識、犠牲的な奉仕や祈りもそうですが、何よりも説得力があるのは「心もからだも感謝と喜びにあふれた生活」です。
(3)信仰に裏づけられた“ヴィジョン”を抱ける教会
「ヴィジョン」とは「幻」「夢」と訳せますが、元々は「遠くを見る」ことで、未来への構想、計画を意味します。「幻のない民は滅びる」という諺がありますが、教会が神の聖なるヴィジョンを抱いて伝道・牧会のわざに全力を傾けることが出来れば、教会はまさに足腰の強い教会となることでしょう。

まとめ:
 司会者に読んでいただきましたローマ6:15〜23に「奴隷」という言葉が何回か繰り返し出てきます。「神に従順に仕える奴隷」(6:16)、「義の奴隷」(6:19)、「神の奴隷」(6:22)
デュウロスとは「徹底的に自らを低くして仕えること」を意味します。
 罪から解放されて、神のデュウロスとされたキリスト者は、聖なる生活の実を結ぶことが出来ます。そのような群れとしての教会は健全で堅固です。
 足腰の強い教会、足腰の強い信仰生活を日々送りたいと願っています。


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