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2004/10/24(日)
「豊かに実を結ぶ生涯」 (聖書) ヨハネ15:1〜10 大嶋博道牧師
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(聖書) 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 ● “実を結ぶ”とはどういうことか? 元々、「実を結ぶ」とは、季節が訪れて植物の果実がなることで、人生に当てはめれば、努力の末、良い結果すなわち成功者になることです。具体的には、名誉や地位を得、有り余る財を蓄え、物質的に豊かに恵まれることでありましょう。 しかしながら、現実には、実を結ぶどころか、子育てに失敗したのではないかとか、仕事を立派に成し遂げた充実感がないとか、いったい今まで自分がやってきたことは何だろうと問い直したり、時には失望感や喪失感を味わう事の方が多いかも知れません。 ポール・トウルニエは人生の四季の中で「充実した人生とは、私たちが日々生じてくる様々な問題を解決した後に初めて開始するするのではなく、勇敢に課題と取り組むという姿勢の中にすでに存在している。」と述べています。 聖書的に言えば「自分に与えられた神の聖なるご計画(み心)を知って、与えられた賜物をいかに活用して、神と人とに謙虚に仕えてきたか?」ということにあるのではないかと考えています。つまり、「結実」とは得たものよりも与えたもの(失ったもの)に目を向けるべきものなのです。 ● どうしたら豊かな実を結ぶことが出来るか? 冒頭の聖書のみ言葉のように、イエス・キリストは「ぶどうの木と枝の譬え」をとおして、実を結ぶためには「わたしにつながり続けなさい」と繰り返し語っておられます。 今朝のキーワードです。「つながる」を意味するギリシャ語の「メノー」は留まる、結びつく、そこに居り続けることを意味する言葉です。 イエス・キリストにつながるとは、信じること、すなわちイエス・キリストに人生を委ねて生きることです。具体的には、日々の祈りと聖書のみ言葉への傾聴、日曜ごとの礼拝生活、つまり、 生活のすべてにおいて「神中心=神第一」に生きることです。 一言で述べれば、豊かな実は、ただイエス・キリストの十字架の贖いに立脚し、そこに立ち、そこから派遣され、また底に戻るリズミカルな信仰生活にあります。 ● 豊かな実を結んだらどうなるのか? 結論から言えば、他者のニードに喜んで「応答する」キリスト者にされます。 あのルカによる福音書12:13以降に「愚かな金持ち」のたとえが記されています。 彼は豊かな豊作の恵みを独り占めして、今までの倉を取り壊し、はるかに大きな倉を建て、そこに収穫物や財産をしまい込み、魂の安住を求めます。人間的に見えれば幸せそのもので す。しかし、神の側から見れば「愚かな者よ、今夜おまえが死んだら、おまえが蓄えた財産はだれのものになるのだ」との厳しい叱責と警告の最も不幸な状態です。 この例えのポイントはこうです。「この金持ちの男には収穫物を共に喜び合う友がいなかったこと、人生の幸せを分かち合う他者をもってなかったことです。 豊かな実を結べば、必ずそれを分かち合うために他者に応答します。つまり、神の愛を、救いの喜びを、神のヴィションを、そして与えられた賜物を出来るだけ多くの人々と共有するのです。 まとめ: 結局、「実を結ぶ生涯」とは、偉大な何かを成し遂げたことでもなく、どれだけ多くのものを蓄えたかということでもありません。 失敗や挫折を繰り返しながらも、悩んだり迷ったりしながらも、信仰によって主イエス様に留まり続け、自分に出来る精一杯を真実に生きてきたかどうかです。 どれだけ得たかでなく、どれだけ分かち合ったか!そこに真の豊かな実りある生涯あります。
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