ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2004年11月
前の月 次の月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

直接移動: 20163 月  20153 1 月  201412 11 10 9 8 7 月  20139 8 6 5 4 3 2 1 月  201212 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201112 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201012 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200912 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200812 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200712 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200612 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200512 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200412 11 10 9 8 7 6 5 4 月 

2004/11/28(日) 「苦悩を担って」(聖書)イザヤ書53:1〜5大嶋博道牧師
アドベント(1)礼拝説教
序 論:
 イエス・キリストの「来臨」(アドベンタス)は預言者たちによって、紀元前700年ごろにすでに預言されていたことです。(イザヤ書9章1〜5)
ですから、イエス・キリストの誕生は「預言の成就」ということができます。ただ、ここに大変驚くべきことが記されています。それは、救い主が来られるこの世界は、「闇の中」であり、「死の陰の地」であったということです。 つまり、暗闇と死の陰が覆う世界に神の子イエス・キリストは来られた、という出来事であります
 
 21世紀を迎えた現代の世界にも至るところに「暗闇と死の陰」は存在します。戦争やテロ、飢饉や食糧不足、自然災害、長期景気低迷、ギクシャクした人間関係、マザーテレサが言ったように「自分は誰からも必要とされてない」と、孤独を感じている人の心に中にも、嫉妬や憎悪を抱いている人の心の中にも「暗闇」は存在しています。

本 論:
 今朝の聖書の箇所は、私たちの世界に訪れた神の憐れみの「光」を紹介しています。
神が人間となってこの世界に来臨されるということは、私たち人間が抱えているすべての「苦悩」を担うことが目的でした。
イザヤ53:1〜5から4つのことを共に学びましょう。

(1)「暗闇の世界」に来られた神はどのようなお方であったのか?
 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。(53:3)彼は悲しみの人で病を知っていた。―私はこの言葉に心が打たれる。(惹かれる)

(2)彼が担ったものは?
  @私たちの病い(まことに彼は私たちの病を負い)― 罪(内面の苦悩)
  A私たちの痛み(私たちの痛みを担った) ― 生活の破れ(外面の苦悩)

(3)なぜ、彼は私たちの苦悩を担ったのか?
  @わたしたちの背き(背信=神に背を向け、自己中心的に生きる姿)
  A私たちの咎(とが=深き罪)
   神から審かれるべき私たちの「罪」を取り除き、解放するため。

(4)彼が担った結果、私たちはどうなったのか?
  @私たちに平和(シャローム)が与えられた。(ヨハネ14:27)
  A彼が受けた傷によって、私たちは癒された。(病気が治った=健康を回復した)

まとめ:
 クリスマスとは、私たちの苦悩を担うために人となってこの世に来臨されたイエス・キリストをお祝いする日です。心から信じれば、このお方はあなたの苦悩を必ず引き受けて背負ってくださいます。

2004/11/21(日) 「もう一度、喜びなさい」 (聖書)フィリピ4:1〜4大嶋博道牧師
収穫感謝祈念礼拝説教
序 論:
 聖書に記されたイスラエルの民は「感謝」の民でありました。過去になされた神の偉大なみ業を思い起こし繰り返して感謝する民でした。
「感謝」の理由として、特に、二つの歴史的出来事が挙げられます。
(1)430年という長い年月奴隷として苦痛を味わったエジプトの地からの脱出。それに続く40年間の荒れ野の旅においてなされた神のご配慮。
(2)70年のバビロン補囚生活から解放されて、祖国である都エルサレムへの帰還。

 この二つはイスラエルの民にとっては「自由と解放」を現実に味わった出来事であり、「感謝」の象徴でした。そしてこれらの「感謝」は「喜び」そのものを意味していました。

●いったい「感謝」とは何か?
 辞書によると「有り難く感じて謝意を表すこと」だそうです。
感謝を意味するギリシャ語は「賛美」、そして、感謝のうちに共に食事をすることから転じて「聖餐」という言葉にも使われています。そして、感謝は「喜び」「楽しみ」「お祝い」にも通じています。
感謝することは「喜ぶこと」であり「楽しむこと」であり、「共に祝うこと」であります。

本 論: 今朝は、フィリピ4:1〜4をとおして3つのことを学びたい。
(1)私たちの喜びの根拠は何か?
 ご存じのように、フィリピの信徒への手紙は、パウロの獄中での手紙ですが「喜びの書」と言われています。4章までの中に「喜び(ジョイ)」、「喜ぶ(リジョイス)」 という言葉が17回も使われています。(2:18,3:1参照)

 いったいパウロは獄の中の不自由な身で、フィリピの教会の信徒に何を根拠に「喜びなさい」と勧めることが出来たのでしょうか?
4:1に「だから(Ωστεオステtherefore)」という言葉があり、そのあと、「主において常に喜びなさい。」が続きます。
この「だから(ですから)」は、3:20〜21を受けての「だから」です。私たちの「喜びの根拠」でもあります。それは、
(1)私たちの本国(国籍)は天にあること。   
 (2)私たちは救い主イエス・キリストの   再臨を待ち望むことが出来ること。  
 (3)このキリストは私の卑しいからだ(みじめなからだ)をご自分の栄光在るからだと同じ形に変えて下さる。
これこそパウロの固く信じている信仰そのものであり、喜びの根拠であります。

(2)私たちはいつ喜ぶのか?(どのくらいの頻度で喜べばいいのか?)
 結論から申しますと、「常に」です。これはテサロニケの信徒への手紙5:16にも記されています。「いつも喜んでいなさい」と。
CF:皆さんの中の何人かはこう反論するでしょう「でもね、先生、喜べない時だってあるんですよ。感謝が出来ない日だってあるんですよ。私が直面している問題のことを考えたらそんなこと、到底、無理です。家庭のこと、職場のこと、健康状態のこと、経済的なこと、子どもの将来のこと、人間関係のこと・・・・・・。」
しかし、聖書は「キリスト者の生活は喜びそのものである」と言ってるのです。聖書の喜びというのは、あなたの人生が置かれている状況に左右されるものではないのです。聖書の言う喜びとは人生に対する態度なのです。
ハバクク3:17〜18(旧約P1468)を開いて読みましょう。

 このような最悪の状態の中にあっても、主に結ばれているゆえに「踊ることが出来るほどの喜び」を常に味わうことが出来る。これが信仰に生きるキリスト者の姿なのです。

(3)喜ぶことによって私たちはどうなるのか?
ピリピ4:6〜13を読むと、こうです。
 @明日への思い煩いがなくなる(心配がなくなる)
 A神への信頼が増し、すべてにおいて感謝を込めて祈れるようになる。
 B神の平安が私の人生に満ちあふれるようになる。
Cいついかなる場合においても生きる秘訣を与えられる。
D私を強くしてくださるお方によってどんなことでも出来る(すべてが可能)

今朝、獄中という最悪の状態の中からのパウロの叫びを聞きましょう。「主に結ばれた者としていつも喜びなさい。重ねて言います、喜びなさい。」


2004/11/14(日) 「幼子のように」 (聖書)マルコ10:13〜16 滝谷良一牧師
子ども祝福礼拝説教
● 序 論:
 主イエス・キリストの3年の公生涯で、伝道の対象は主としてイスラエルの失われた「大人たち」であった。だから、弟子たちは、このようなイエスが子どもたちを相手にする時間がないことをよく知っていた。
 しかしながら、多くの親たちは、主イエスに「我が子」の祝福を求めて続々やってきた。弟子たちは、大人の伝道に忙しい主イエスのことを思って、子どもたちを連れてきた大人を叱った(マルコ10:13)
ところが、主イエスはこれを憤り、弟子たちに「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。・・・はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われた。

● 本 論:
いったい主イエスは子どもたち(幼子)の中に何をごらんになられたのか?
それは@無条件で信頼する心 A素直な心 B委ねきる心 C何の疑いも抱かないで依存する心である。そして、主イエスは大人にこのような心を求められたのである。なぜなら、神の国はこのような者たちのものだからである。
 この世の価値観は権力や能力や富みに象徴される「持つことhaving」にあるが、主イエスの価値観はそれとは対照的に、仕えるしもべになることであった。すなわち「在ることbeing=神と人とに真実に仕え、あるがままを生きること」であった。
主イエスが十字架の道を目指してエルサレムに向かう途中、弟子たちはお互いに「自分たちの中でだれが一番偉いのか?」と議論していた。主イエスはその時、「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言われた。(マルコ9:33〜35)」
 その言葉どおり、主イエスは神ご自身でありながら、それを固守すべきこととは思わず、人となられ、しかも「しもべ」の姿になられ、人々の罪を贖うために十字架の道を歩まれた。(ピリピ2:6〜11)

 まとめ:
 今朝のテキストの主イエスのことばの意味はこうである、幼子は何も持たず、何も主張せず、ただ親に委ねきって生きている。その姿こそ「神の国」にふさわしい姿なのである。
私たちもただひたすら自らの人生を神に委ね、信頼し、素直な信仰をもって歩みたいものである。「神の国」はそのような人に与えられるのである。
 主イエスは子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

2004/11/07(日) 「義人はいない、一人もいない」(聖書)ローマ3:21〜24  大嶋常治牧師
召天者追悼記念礼拝説教

●今日のみ言葉の10節に「正しい者はいない。一人もいない。」そして12節には「善を行う者はいない。ただの一人もいない。」とあり、また18節には「彼らの目には神への畏れがない。」とあります。人は全て「善人・義人」でありたいと願いますが、聖書は「義人は一人もいない」と言い切っています。
さて、今朝は3種類の「義人」について考えてみましょう。
「律法義人」「自称義人」「信仰による義人」です。
 
 @律法義人―ノアは正しい人であって、全き人であった、神と共に歩んだ人であったと旧約聖書にはあります。ですからあの大洪水からも救われます。しかしそのノアでさえ、後になってブドウ酒に酔い、裸で寝てしまうという大失態を犯してしまいます。また、義人と呼ばれたヨブは悪魔の様々な試みに対して、確かに神様の思われた通り、神様を見失いませんでした。…しかしある時に、神を呪い、神を疑うような事を口にするようになります。使徒パウロは律法に精通し、律法を守ることには落ち度のない人と思われていました。しかし、彼にもキリスト教徒を迫害するという過ちがあり、葛藤があり、弱さがありました。

 A自称義人―義人を自称する人は世の中にはたくさんいます。私がかつて牧会していた教会にある夫婦がおられ、妻は熱心なクリスチャンで、その夫は真面目で立派な方でしたがクリスチャンではありませんでした。この夫は妻に「お前の信仰とオレの行いとどちらが立派か比べて見よう」と、言ったほどです。その夫も重病にかかった時に病床で「お前の教会の牧師を呼んできてオレにキリスト教の話しをしてもらって欲しい」と頼んだというのです。死を目前にして、果たして自分が天国に入ることが出来るのだろうかと不安になったのではないかと思います。
 
 B信仰による義人―このように人間は、律法によっても、義人と自称していても本来、罪人なのです。神様の前に立つ時に一人の義人もいないのです。
そんな人間に対して聖書は「神のひとり子、キリスト・イエス」をこの世に遣わして、
神の恵みにより無償で私たちを義人としてくださったのです。私たちは自分の力では義人になる事は絶対に不可能なのです。ただ、イエス・キリストの十字架の贖いのみ業により、それを信じる信仰によってのみ、神ご自身が私たちを「義」と認めてくださるのです。

●今、私たちの前に飾られているお写真がありますが、この方お一人お一人に神の愛が働いてくださいました。そして今も、この時にもこの方々の上にも、そして私たち一人一人の上にも神のみ業が働いているのです。今は天国におられるお一人お一人もキリストによって生ける存在となっています。          


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.