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2004/11/14(日)
「幼子のように」 (聖書)マルコ10:13〜16 滝谷良一牧師
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子ども祝福礼拝説教 ● 序 論: 主イエス・キリストの3年の公生涯で、伝道の対象は主としてイスラエルの失われた「大人たち」であった。だから、弟子たちは、このようなイエスが子どもたちを相手にする時間がないことをよく知っていた。 しかしながら、多くの親たちは、主イエスに「我が子」の祝福を求めて続々やってきた。弟子たちは、大人の伝道に忙しい主イエスのことを思って、子どもたちを連れてきた大人を叱った(マルコ10:13) ところが、主イエスはこれを憤り、弟子たちに「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。・・・はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われた。
● 本 論: いったい主イエスは子どもたち(幼子)の中に何をごらんになられたのか? それは@無条件で信頼する心 A素直な心 B委ねきる心 C何の疑いも抱かないで依存する心である。そして、主イエスは大人にこのような心を求められたのである。なぜなら、神の国はこのような者たちのものだからである。 この世の価値観は権力や能力や富みに象徴される「持つことhaving」にあるが、主イエスの価値観はそれとは対照的に、仕えるしもべになることであった。すなわち「在ることbeing=神と人とに真実に仕え、あるがままを生きること」であった。 主イエスが十字架の道を目指してエルサレムに向かう途中、弟子たちはお互いに「自分たちの中でだれが一番偉いのか?」と議論していた。主イエスはその時、「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言われた。(マルコ9:33〜35)」 その言葉どおり、主イエスは神ご自身でありながら、それを固守すべきこととは思わず、人となられ、しかも「しもべ」の姿になられ、人々の罪を贖うために十字架の道を歩まれた。(ピリピ2:6〜11) まとめ: 今朝のテキストの主イエスのことばの意味はこうである、幼子は何も持たず、何も主張せず、ただ親に委ねきって生きている。その姿こそ「神の国」にふさわしい姿なのである。 私たちもただひたすら自らの人生を神に委ね、信頼し、素直な信仰をもって歩みたいものである。「神の国」はそのような人に与えられるのである。 主イエスは子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
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