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2004/11/07(日)
「義人はいない、一人もいない」(聖書)ローマ3:21〜24 大嶋常治牧師
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召天者追悼記念礼拝説教 ●今日のみ言葉の10節に「正しい者はいない。一人もいない。」そして12節には「善を行う者はいない。ただの一人もいない。」とあり、また18節には「彼らの目には神への畏れがない。」とあります。人は全て「善人・義人」でありたいと願いますが、聖書は「義人は一人もいない」と言い切っています。 さて、今朝は3種類の「義人」について考えてみましょう。 「律法義人」「自称義人」「信仰による義人」です。 @律法義人―ノアは正しい人であって、全き人であった、神と共に歩んだ人であったと旧約聖書にはあります。ですからあの大洪水からも救われます。しかしそのノアでさえ、後になってブドウ酒に酔い、裸で寝てしまうという大失態を犯してしまいます。また、義人と呼ばれたヨブは悪魔の様々な試みに対して、確かに神様の思われた通り、神様を見失いませんでした。…しかしある時に、神を呪い、神を疑うような事を口にするようになります。使徒パウロは律法に精通し、律法を守ることには落ち度のない人と思われていました。しかし、彼にもキリスト教徒を迫害するという過ちがあり、葛藤があり、弱さがありました。 A自称義人―義人を自称する人は世の中にはたくさんいます。私がかつて牧会していた教会にある夫婦がおられ、妻は熱心なクリスチャンで、その夫は真面目で立派な方でしたがクリスチャンではありませんでした。この夫は妻に「お前の信仰とオレの行いとどちらが立派か比べて見よう」と、言ったほどです。その夫も重病にかかった時に病床で「お前の教会の牧師を呼んできてオレにキリスト教の話しをしてもらって欲しい」と頼んだというのです。死を目前にして、果たして自分が天国に入ることが出来るのだろうかと不安になったのではないかと思います。 B信仰による義人―このように人間は、律法によっても、義人と自称していても本来、罪人なのです。神様の前に立つ時に一人の義人もいないのです。 そんな人間に対して聖書は「神のひとり子、キリスト・イエス」をこの世に遣わして、 神の恵みにより無償で私たちを義人としてくださったのです。私たちは自分の力では義人になる事は絶対に不可能なのです。ただ、イエス・キリストの十字架の贖いのみ業により、それを信じる信仰によってのみ、神ご自身が私たちを「義」と認めてくださるのです。
●今、私たちの前に飾られているお写真がありますが、この方お一人お一人に神の愛が働いてくださいました。そして今も、この時にもこの方々の上にも、そして私たち一人一人の上にも神のみ業が働いているのです。今は天国におられるお一人お一人もキリストによって生ける存在となっています。
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