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2004/12/12(日)
「私たちのうちに宿られたお方」(聖書)ヨハネ1:1〜14
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アドベントに際して、クリスマスの意義を考えてみましょう。 ヨハネは非常に神学的な表現で「言葉(ロゴス)は肉体となってわたしたちのうちに宿った」(1:14)と、ロゴスの受肉について述べています。実はこの「私たちのうちに宿った」(エスケノー=テントを張る、住む)という出来事こそ「神の聖なる冒険」であります。 (1)クリスマスとはどんな日か? ある神学者がクリスマスを定義して「神が人間世界に冒険された日」と言いました。 冒険(adventure)とは危険を冒して何かをする、危険の中に身を挺することを意味します。「神の冒険」とは、神が決定的なことを私たちのためになされたことを意味します。 新約聖書によりますとそれは、「独り子イエス・キリストをこの世に与えられた」ことであります。(ヨハネ3:16)
(2)なぜ、それは「冒険」なのか? ではなぜそれが冒険だったのでしょうか?この世が調和を失った罪と悪の世であり、そこに住む人間が愛を失って醜い争いを繰り返し、神に背く罪人だったからです。神はそんな愛するに価しない世界に、独り子イエス・キリストを送り込まれたのです。 冒頭で述べたように、ヨハネは神の冒険を「言葉は肉となって、私たちの間に宿られた」と紹介しています。 (3)なぜ、神はあえて冒険されたのか? それは、ただ「闇」に生きる人間の罪を贖い、そこから解放するだけのためです。ヨハネ3:16は、神がなにゆえ冒険をされたのかを明らかにしています。その目的は、信じる者(私たち人間)が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためでした。 (ヨハネの手紙一4:9〜10参照)
(4)私たちは神の冒険にどう応答したら良いのか? 私のような自己中心的で罪深く、未熟な者のためにあえて「冒険された神」にどう応答すれば良いのでしょうか? ただ、受け入れることです。ただ心の底から信じるだけでいいのです。そして、マザーテレサが述べているように、私たちを必要としている人に「少し痛む愛」を傾ければいいのです。私たちも勇気をもって少しだけ冒険したいものです。 最後に、1900年の始めにO.ヘンリーという人が書いた「The last leaf (最後の一葉)」 に登場する絵描きのベールマン老人のように、他人に生きる勇気と希望を与えるために自らのいのちを投げ出すほどの「愛の冒険」をしたいものです。クリスマスとは神があなたのために冒険された日です。心から感謝し、喜びましょう!
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