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2004/04/25(日)
「希望を生きる者として」ローマ5:3〜5(大嶋牧師)
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●望み得ないのに望みつつ 現代人が失った大切なものに「希望 hope」があります。世界や日本の未来に望みを持つことが出来なくなり、自らの人生にすら希望を抱けなくなっているのが現状です。「希望」とは、あることを成し遂げようと願い求めることが原意で、その原動力は未来への「期待」と「信頼」です。 「〜になりたい、〜を手に入れたい、〜でありたい」というヴィジョンに伴う期待感、可能性への信頼感が「希望」を生み出すのです。 信仰の父と言われたアブラハムは100歳で子どもを与えられました。彼は「希望するすべもなかったのに、なおも望みを抱いて信じた」とあります。(ローマ4:18)
●「希望」はどこからやってくるのか? 結論から言えば、本当の希望は人間からではなく、ただ神からのみやってきます。聖書の中で使われている最も多い言葉の一つは「望み(希望)ελπιsエルピス」です。 詩人は「わが望みは神から来る」(詩編62:5)と告白しています。「望みの神」という言 葉もあります。(ローマ15:13)また「わたしたちの望みであるキリスト」という言葉も記されています。(1テモテ1:1) 富やモノ、名誉も地位、また子どもなども自分の未来の希望を支える条件です。しかし、いつか消えてしまうものにではなく、永遠に変わらない「神」に望みをいだく人は幸いです。聖書ははっきり「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛」の三つです、と述べています。神に望みを置く人には信仰が生まれ、信仰は愛を生み出す力なのです。 ●人間は望めば望むほど・・・・・ ・第二次世界大戦が終結する少し前に、ドイツのナチスヒットラーに抵抗して獄に捕らえられ、独房で殉教したボンフェッファーは試練の中で「われわれはあなたがたに希望を抱けと言おう。希望は決して失望に終わることがないのである。人間は望めば望むほどその希望と共に大きくな る。人間は希望と共に成長するのである、」と述べています。
・ここで言う希望とは「条件が整っていなくても」望むこと、待ち望む信仰です。ボンフェッファーは神への望みを抱いていたのです。だから、アブラハムと同様に、望み得ない絶望の環境(獄中)にあって望むことが出来たのです。
●私たちの最終的な望み パウロは「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む・・・希望は私たちを欺かない(裏切らない))(ローマ5:3〜5)と述べています。 試練の中で、厳しい困難な戦いの中でこそ、私たちは望むことが出来るのです。なぜなら「万事は神が共に働いて益として下さる」からです。ここでの「益」とは金銭やモノが増えるとか名誉や地位が向上するとかいう程度のモノではなく、神がすべての中に働いて最善をなして下さり、私たちを永遠の天のみ国に迎えて下さるという最高の「益」のことです。これこそキリスト者の最終的な望みなのです。 (尚、聖書のみ言葉は新共同約聖書から引用しております。)
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