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2004/05/30(日) 「神の現臨に生かされて」 
ペンテコステ記念礼拝説教  2004・5・30
「神の現臨に生かされて」(み言)使徒2:1〜4,37〜41はじめに
 使徒言行2:1〜4に、聖霊降臨の出来事が詳細に記されています。
これは旧約における神の預言の成就であると共に、復活の主の約束の成就 でもあります。ペンテコステに際して聖霊とは何か、聖霊の顕著な働きについて共に考えてみましょう。              
 聖霊とは何か?

@旧約における「神の霊」− 旧約聖書には「聖霊」という言葉はなく、「神の霊」という言葉が用いられています。「霊」を意味するヘブル語の「ルアッハ」は「生命を与える息」のことで、動く風として現れます。それはまたいのちの息吹であり神から人間に与えられるものです。(詩編104:29)

A新約における「聖霊」− 新約聖書では神の霊はむしろ「御霊」(プニューマ)とか「聖霊」と訳されて使われています。これらの言葉の意味も基本的には旧約聖書の「ルアッハ」に規定されています。

   聖霊の顕著な働きについて

(1)罪を認めさせ、新生させるために聖霊は罪の絶望の中にある者を悔い改めに導き、イエス・キリストによる新しいいのちの希望へと再生させる働きをします。パウロは「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。・・・この霊によって私たちは“アッバ、父よ”と呼ぶのです。」(ローマ8:14〜16参照)と述べています。

(2)真の希望に生きるために
 聖霊は私たちの将来の全き救いの先取り、担保として、希望の根拠であります。エフェソ1:14にあるように「聖霊は御国を受け継ぐための保証」ですから、聖霊を信じ、それに生かされて歩むとき、私たちは今ここで希望を確かなものとすることができるのです。なおかつ、聖霊は真の「パラクレートス」(弁護者、慰め主)として、不安や恐れ、困難や試練の中にいる私たちと共におられ、良き導き手として共に歩んでくださるお方なのです。

(3)伝道の働きへと派遣されるために
 聖霊の偉大な力は、私たちをしてこの世へ伝道の働きへと派遣する力です。あのペンテコステの奇跡は、神の現臨の奇跡であります。使徒2:1〜4によると、エルサレムの二階座敷に集まり、熱心に祈っていた弟子たちの集団は、約束の聖霊を受けて“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出しました。

   まとめ:
キリスト者はエクレシアとして神に呼び集められた者であると共に、聖霊によって、この世へとデイアスポラとして散らされ、派遣されて行く者であります。私たちキリスト者の教会が再びこの世における神の現臨のしるしとなり得るために、ペンテコステの聖霊の体験を個々の信仰生活の中で確かなものとしたいものです。     (文責=大嶋)

2004/05/16(日) 「優しい心」ヨハネ8:1〜11信徒礼拝説教(畑中康雄勧士)
●今日の聖書では「姦淫の現場で1人の女性が捕らえられ」ます。
そしてパリサイ人たちはイエスに向かってこの女をどのようにしたら良いかと質問します。この問いには「主イエスを訴える口実を得るため」にと言う別の意図がありました。

●ここでイエスは不思議な事をなさいます。「イエスはかがみ込み、指で地面に向かって何か書き始められた」のです。何を書いておられたのかは聖書には書かれてはいません。「何故イエスはその様な事をされた」のでしょうか。人々が姦淫の女を捕まえて、罪に陥れるため、またイエスをも訴え出る口実を得るために主イエスにこのように言って詰め寄るその姿にイエスは人間の深い罪を見ておられたからです。その姿は「人間の罪に背を向けておられた姿」ではないでしようか。

●このイエスの姿を見ても罪の意識を感じ取る事が出来ない民衆は「しつこく問い続け」ます。そこでイエスは身を起こして「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われました。人々はハットした事でしょう。さあ、どうするとイエスに責めよっていた民衆はこのイエスの言葉で自分たちも罪人であると言う事に気づいたのでしょうか。年長者から始まって、1人また1人と立ち去ったとあります。

●人の過ちを赦さず、その罪に腹立たしさを覚え、怒りの感情をもって発する言葉は人を赦し、人を生かす言葉とは成り得ません。人の弱さを知り、過ちを犯した時の辛さ、痛みを知る者の言葉が相手の心に届き、人を生かし立ち直らせる言葉となるとイエスは教えておられるのです。

●さて、パリサイ人たちは立ち去りイエスとその女だけが残されます。女はここでイエスを罪を犯したことのないお方と知り「主よ」と言います。今、ここにいるのは罪を犯した私とそれを裁く事の出来る主・イエスと2人だけしかいないと言う事をこの女は告白しているのです。

●「イエスが身をかがめて何かを地面に書いておられた」と言う聖書のこの場面では姦淫の罪を犯した女が群衆の前に引き出されています。沢山の人々の冷たい目がこの女に注がれています。その時にイエスはかがみ込んで地面に何か書き始められたのです。人々はこれを見て「イエスは何をされるのか」と女からイエスへとその目は一斉に向かいます。この女に向けられていた厳しい、目がイエスに向けられます。女へ向けられていた裁きの視線をイエスが引き受けてくださったのです。イエスは誰よりも低く身をかがめて、一番低くなって罪を引き受けてくださるお方なのです。このようにしてこの女の罪をイエスは引き受けてくださいました。このように人の悩みを知り、その心の中を癒す事の出来る優しい心を私たちも持ちたいと思います。
(尚、聖書のみ言葉は新共同約聖書から引用しております。)

2004/05/09(日) 「その召しにふさわしく」エフェソ4:1〜6(大嶋牧師)
●私たちの「召し」とは何なのでしょうか。「召し」と言う言葉を聞く時に牧師や宣教師のような特別な働きをする人を思い浮かべます。確かに第一義的にはそのような意味がありますが、今日はそのような特別な意味ではなくて私たち一人一人に与えられた「召し」即ち「生涯にわたってどのように生きていくか」と言う事を学びます。

●「召された」とは受身形です。自分が選んでその職について働くのではなくて、神から選ばれ、招かれたことによってその職を選ぶと言うところに意味があります。従って、選びの主体は「神」です。その事によって、どんなに苦難が待っていてもそれが神のご意志と信じて輝いて生きていく事が出来る選びを「召し」と言うのです。この召しという言葉は「ロ−マ1章1節」とか「ガラテヤ1章1節」にも出てきます。

●パウロは主の「囚人」として生きる生き方をし、それがパウロにとっては「召し」としての生き方でした。(ローマ1:1、TUコリント1:1、特にガラテヤ1:1)
 では、私たちはどのように生きれば良いのでしょうか。「召しにふさわしい」生き方を挙のテキストから学びたいと思います。次の4つのことが挙げられます。

@第一の事は「謙遜に生きる」と言う事です。生涯を通して謙遜であれ、と言うのが第一の生き方です。謙遜に生きるためには私たちは神によって造られた被造物にすぎないと言う事を知らねばなりません。また、弱く、脆く、傷つきやすい存在であることを自覚しておきたいものです。

A第二の事は「柔和に生きる」と言う事です。即ち心のバランスが取れている生き方の事です。感情をコントロ−ルして生きることのできる生き方をする事です。

B第三の事は「寛容に生きる」と言う事です。不屈の精神を持って生きる生き方です。報復する力を持ちながらもこれを用いない生き方です。

Cそして第四の生き方は「愛による忍耐に生きる」と言う事です。この事は今更説明をするまでも無いことでしょう。
忍耐には愛が伴います。愛がなければ耐えることが出来ません。

● 以上のことを心に留めながら、主に選ばれた者として「召し」に相応しく生きて行きたいと思います。
(尚、聖書のみ言葉は新共同約聖書から引用しております。)

2004/05/02(日) 「手のひらに刻まれて」イザヤ四九:14〜16(大嶋牧師)
●今日のみ言葉の中心は16節の「見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。」にあります。20世紀から21世紀に引き継がれた良きものに「科学の発達」「医学の進歩」「教育の向上」そして「物質的な豊かさ」があります。しかし、これらの背後に様様な問題も生じました。私たちの多くには「憂い」があります。「強い者は生き残り、弱い者は強い者に吸収されてしまう」と言う「存在不安」です。そんな中にあって今日のみ言葉は存在の確かさを示しています。

●「手のひらにあなたの名前を刻むと言う事には次のような意味があります。

@まず第一には、神が私の創始者(命の始まりであり、私を完成させてくださるお方)であるという事を意味します。

A第二には、神はあなたを決して見放されないお方であるという事を意味します。

B第三には、神はあなたを業や持っている物でその値うちを計られるお方ではなくて、あなたの存在そのものをそのまま認めて受け入れてくださるお方であるという事を意味します。

C第四には、神はあなたを生涯の終わりの日まで最善を尽くして持ち運んでくださるお方であるという事〜神様のみ手の中であなたを持ち運んでくださるという事を意味します。

Dそした第五の意味として、神はあなたの必要としている事をご存知で常に配慮してくださるお方であるという事を意味します。自分があくせくして、悪戦苦闘しているその背後で神様は私たちの必要としているものを既に備えていてくださるのです。

●私たちはマザ−テレサも言われているように生まれてくる前から神様に覚えられ、祝され、そして備えられていて愛されている存在なのです。この事を覚えて神に感謝したいと思います。
(尚、聖書のみ言葉は新共同約聖書から引用しております。)


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