|
2004/05/09(日)
「その召しにふさわしく」エフェソ4:1〜6(大嶋牧師)
|
|
|
●私たちの「召し」とは何なのでしょうか。「召し」と言う言葉を聞く時に牧師や宣教師のような特別な働きをする人を思い浮かべます。確かに第一義的にはそのような意味がありますが、今日はそのような特別な意味ではなくて私たち一人一人に与えられた「召し」即ち「生涯にわたってどのように生きていくか」と言う事を学びます。
●「召された」とは受身形です。自分が選んでその職について働くのではなくて、神から選ばれ、招かれたことによってその職を選ぶと言うところに意味があります。従って、選びの主体は「神」です。その事によって、どんなに苦難が待っていてもそれが神のご意志と信じて輝いて生きていく事が出来る選びを「召し」と言うのです。この召しという言葉は「ロ−マ1章1節」とか「ガラテヤ1章1節」にも出てきます。
●パウロは主の「囚人」として生きる生き方をし、それがパウロにとっては「召し」としての生き方でした。(ローマ1:1、TUコリント1:1、特にガラテヤ1:1) では、私たちはどのように生きれば良いのでしょうか。「召しにふさわしい」生き方を挙のテキストから学びたいと思います。次の4つのことが挙げられます。
@第一の事は「謙遜に生きる」と言う事です。生涯を通して謙遜であれ、と言うのが第一の生き方です。謙遜に生きるためには私たちは神によって造られた被造物にすぎないと言う事を知らねばなりません。また、弱く、脆く、傷つきやすい存在であることを自覚しておきたいものです。
A第二の事は「柔和に生きる」と言う事です。即ち心のバランスが取れている生き方の事です。感情をコントロ−ルして生きることのできる生き方をする事です。
B第三の事は「寛容に生きる」と言う事です。不屈の精神を持って生きる生き方です。報復する力を持ちながらもこれを用いない生き方です。
Cそして第四の生き方は「愛による忍耐に生きる」と言う事です。この事は今更説明をするまでも無いことでしょう。 忍耐には愛が伴います。愛がなければ耐えることが出来ません。
● 以上のことを心に留めながら、主に選ばれた者として「召し」に相応しく生きて行きたいと思います。 (尚、聖書のみ言葉は新共同約聖書から引用しております。)
|
|
|