ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2004年6月
前の月 次の月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

直接移動: 20163 月  20153 1 月  201412 11 10 9 8 7 月  20139 8 6 5 4 3 2 1 月  201212 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201112 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201012 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200912 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200812 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200712 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200612 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200512 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200412 11 10 9 8 7 6 5 4 月 

2004/06/27(日) 「聖なる神、熱情の神」(聖書)ヨシュア記24:14〜22(大嶋博道牧師)

序 論:
 今日の聖書の箇所は、ヨシュアが晩年を迎え、死を前にして、イスラエルの民に語った説教の一部です。
ヨシュアは、モーセの後継者として、イスラエルの民を導き、ヨルダン川を渡り、カナンの地で立派に戦い抜きました。そして、晩年に、その神様への感謝と献身をこの説教の中で語っています。
 
 ここのキーワードは「主に仕える」ということですが、まず、ヨシュアが誓った「仕えるべき主」とは誰なのかを明らかにしておきます。
@先祖を選び出された主なる神(創世記12:1〜4)
A出エジプトから救い出して下さった主なる神(出エジプト20:2)
B呪いを祝福に変えて下さった主なる神(民数記24:1〜)
C勝利を与えて下さった主なる神(ヨシュア記1:5)
 
 もう一つ、「仕える」とはどういうことを意味するのでしょうか。英語では〔Serve〕という言葉が使われています。
これは、「仕える」「奉仕する」のほかに「役立つ」「報いる」と訳せます。さらにもっと深い意味において「礼拝する」という意味があります。

本 論:
 このヨシュアの説教から、3つのことをお話をさせていただきたいと思います。
(1)一方的な恵みによって与えられた「仕える家族」
 ヨシュアは、「わたしとわたしの家とは主に仕えます。」と言っています。これは、自分の家族のことを指しています。
家族というのは、本当にかけがえのない大切な人たちです。誰よりも自分のことを知っていて、愛してくれ、ありのままでいられるのが家族です。そのような家族を神様が一方的な恵みによって与えて下さったのです。

(2)「主に仕える家族」が除き去らなければならないこと
 ヨシュアは、このように一方的に与えられた神様の恵みを数えた上で、イスラエルの民に決断を迫ります。(14〜15節参照)ここには3つの偶像のことが書かれています。
 私達にも偶像礼拝の誘惑がしばしばあります。また、偶像というのは、唯一の神様より大切にされる全ての物を言うのです。
私達を神様から引き離そうとする全てのものを指しています。ヨシュアは、そのような偶像を除き去るようにと迫っています。「除き去る」という言葉は「しりぞける」「切り落とす」「断つ」などという意味があります。つまり、はっきりと分離して、捨て去ってしまうということです。主に心から仕えるためには、何よりも「偶像」から聖別されたいものです。

(3)「主に仕える家族」の主体的な献身
 ヨシュアは24:15を読む限り、決してイスラエルの民に信仰の強制をしませんでした。
民に自由な選択の機会を与えながら「ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」と言っているのです。
ヨシュアは自分の決断で、主に仕えることを選び取ったのです。
 この時に、ヨシュアはもう、100才になろうとしていました。普通だったら、平穏な隠居生活を望むところですが、ヨシュアは、最後まで神様に従い、仕える道を選び取ったのです。(ヨシュア記13:1参照)

まとめ:
 今日、家庭の崩壊や解体があちこちに見られます。家族を受け入れる家庭が崩れると、家族はバラバラになるのは当然でしょう。このような危機的状況の中で、家族がもう一度健全に回復するために大切なことは、聖なる神、熱情の神である主に心から仕えることではないでしょうか。「わたしとわたしの家は主に仕えます」と告白したヨシュアのように!
 キリスト者−それはただひたすら「唯一の主」に心から仕える者たちのことです!そこに真の祝福があり、家族の大切な絆が形作られるのです。

2004/06/20(日) 特別礼拝「恐れずに信じなさい」 (聖書)ルカ8:40〜56 (土屋敦先生)
はじめに:
私たちには簡単に諦めることのできることがらと、問題が解決するまで決して諦めることの出来ないことがらがあります。
今日のテキストに登場する12才の重病の娘をもった「会堂長」ヤイロにしても、12年もの長い間出血に苦しんでいた一人の女性にしても、「病気の快復」のためにはどんなことでもなりふり構わずやるほど、決して諦めることができなかったのです。

本 論:
会堂長ヤイロは娘の病気の快復のために出来る限りの手を尽くして来ました。しかし、その努力は空しく決して報われませんでした。彼は最後に、主イエス様のところにやって来て、足元にひれ伏して懇願したのです。主イエス様はヤイロの訴えを聞き入れ、この娘のところに赴くことにしたのです。
一方、その途中のことですが、12年間も出血を患って苦しんでいた一人の女性に出会います。
彼女は多くの医者にかかり、全財産を使い果たしてしまいましたが、報われず、病気は悪くなるばかりでした。
 人は、このような時、人間的手段を講じて何とか解決をはかろうとします。人やモノに頼って危機的な状態から何とか逃れようと試みます。
しかしながら、テキストに記されているように、12年間出血に苦しんでいた女性は、主イエス様の衣の房に触ることによって、すなわち、主イエス様により頼むことによって、病気の癒しを経験したのです。
 主イエス様がこの女性の癒しに時間を用いている時に、ヤイロは「娘さんが亡くなりました」という悲報を耳にしました。しかし、このヤイロも主イエス様により頼み、たとえ、絶望的な事態の中においてさえ、主イエス様がなされる奇跡のみ業を待ち望むことが出来たのです。
 人々は「娘は眠っているだけである」と言われた主イエス様の言葉をあざ笑いましたが、主イエス様にとっては、天地万物を創造された神にとっては、人間の「生も死」もすべてはみ手の中にあるもので、ご自身のご支配の元にあるものでした。だから、遅れて行かれても問題ではなかったのです。

まとめ:
 私たちにとって大切なことは神様に信頼し、「恐れず信じ続けること」だけなのです。
目の前にあるものは到底解決ないような困難な問題や課題であっても、あるいは絶望的な状態であっても決して諦めないで、そして、単に人間的な手段や努力だけで活路を見出そうとするのでなく、何よりも不可能を可能に変えてくださる神を信じることです。
「恐れないで、心配しないで、神を信じ続け」たいものです。その時、奇跡は確実に起こるのです!

2004/06/13(日) 「道は必ず開かれる」(聖書)出エジプト記13:17〜22(大嶋博道牧師)
はじめに:
 今日のみ言葉の中心は21〜22節です。
キリスト教は、イエス・キリストの十字架の贖いにおいて示された「神の愛」が中心です。と、同時に聖書を一貫して流れているのは「インマヌエル」、すなわち「神は私たちと共におられる」という臨在の教えです。

 さて神様は、出エジプトの際、10日程で行ける行程を40年もかかって行かせられました。
17節にある通りに神様はイスラエルの民のカナンへの旅を、直線の最短距離でなく、荒れ野の道に「迂回」させられました。そして神様は昼は雲の柱、夜は火の柱をもって臨在を示し、共に歩んでくださることを約束されました。今日のこの聖書の箇所から次の3点を学びます。

(1)私たちの人生には「迂回」させられる事があると言う事。
回り道は人が成長するために、即ち忍耐を知り、待つ事を学び、そして目的地に到達した時の真の喜びを知るための神の配慮であり、恵みであると言うことがその第一の学びです。

(2)神様は先の先まで見通しておられるお方であると言う事。
ペリシテ街道には強力な敵がいたので〜その事を見通しておられたので神様は敢えて別の道をお選びになりました。即ち、神には神ご自身のご計画・みこころがあると言う事がここで私たち
は知らねばならない第二の事です。

(3)道は必ず開けると言う事。
私たちの人生の中ではしばしば迂回させられる事があります。そして、迂回していると言う事が分かるためには目的地が明らかでないと迂回している事自体がわかりません。その目的地とは一体どこなのでしようか。私たちが神様の用意されている所に行くことが、目的地に到着する事なのです。そしてそのゴ−ルへの安易な近道はないのです。私たちはその間、病気や失敗や、時には事故や挫折を経験します。しかし、そしかし、覚えていただきたい、あなたの進む道は必ず開かれるということを。道は必ず神様が開いてくださるのです。神は最善の道を備えていてくださるという事を私たちが学ばねばならない第三の事です。

まとめ:               
あなたの人生の荒れ野において、神様は明るい昼は「雲の柱」をもって、暗闇の夜は「火の柱」をもってあなたに臨在を示し、あなたに最善の道を備えて下さいます。八方ふさがりの時でさえ、天の窓は開かれているのです。そう、道は必ずひらかれます!

2004/06/06(日) 「わたしは神にむかって」(聖書)詩77・1〜16(大嶋博道牧師)
花の日記念礼拝説教   2004・6・6

「わたしは神にむかって」(み言)詩77・1〜16

はじめに:
今日のみ言葉は「あれこれ思い悩む人」「心配する人」「多 忙過ぎて疲れている人」「スランプに陥っている人」そして「神様はもう恵みをくださらないと絶望している人に対して語られた詩です。
ここから次の4点を学びます。

@2〜4節がその第一の事です。それは「人間の苦悩」についてです。
ここでは苦悩している人に対してかたられています。助けを求めて叫んでいます。主を求めています。いったい、人は何故悩むのでしょうか。
人は「自分の苦しむ意味」がわからない時に悩みます。また、「希望が持てる」とは、苦難の向こうにある光が見えてそれを信頼出来る時に生じる心の期待なのです。

A5〜11節がその第二の事です。ここでは「神への不信頼=疑い」について書かれています。11節には「…わたしは弱くされてしまった」とあります。神の助けが私に届かなくなってしまった、と嘆いています。私たちはしばしば神を疑う事があります。信じている事を実感出来なくなったら疑いが生じます。ガリラヤ湖で弟子たちはイエスと共にいながら突風を恐れてしまいました。(ルカ8・22〜)疑わないで平安を得たいものです。

B12〜13節がその第三の事です。ここでは「神のみ業を思い起こす」事が書かれています。神様がかってなさった奇蹟を思い起こし、その御業に思いめぐらす事です。かって神様がなさった奇蹟は、今のこの時代においても私になしてくださると言う事に信頼を持つ事の大切さがここでは語られています。私たちも苦難の時に、過去になされた神のみ業に目を向けたいものです。そのとき、神の愛の大きさに気づくことでしょう!

C14節〜16節がその第四の事です。それは神様は「ご自身の目に叶った目的」をもって行動しておられると言う事がここでは告白されています。神のなされることはその時に適って美しいのです、時に対する信頼こそ、神のご計画に信頼する姿です。
まとめ:
77章の2節にこの詩の詩人の信仰が見えます。それは神様に向かって声を挙げ、助けを求めることです。さあ私たちも日々「神に向かって祈り、賛美をささげ、」たいものです。そのとき、神は私たちに近づいてくださいます。
               


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.