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2004/07/11(日) 「主の前に立って」( 列王上17:2)大嶋博道牧師
「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる The Lord ,the God of Israel lives, before whom I stand.・・・(列王上17:2)
はじめに:
 蒸し暑い日が続いています。お変わりなくお過ごしでしょか。
いつも平安をお祈りいたしております。
 今朝のメッセージの結論は、キリスト者は生涯を通じて「主なる神のみ前に立ち続ける者」でありたい、ということです。
「神の前に立つ」ということがどういうことかは、本論でお伝え致します。
序 論:
今朝、注目したいのは18:1〜8です。その中でも1節と8節に記された、3人の神の使いに対するアブラハムの「態度=姿勢」であります。
 1節を見ると、アブラハムに現れたのは主なる神ご自身であったと言うことができます。
ある聖書注解者は3人の神の使いに対するアブラハムの接待は、当時の生活環境と生活様式(すなわち習慣)に沿ったものであるが、まさに「名人芸」である、と述べています。
まず水で足を洗ってあげ、旅の疲れをいやす木陰を提供し、さらに小麦粉3リットルを使ってパンを作り、やわらかくておいしそうな子牛を選んで料理させ凝乳(酸っぱい牛乳=ヨーグルト)、
牛乳、できたての子牛の料理でもてなした。3人の神の使いは木陰で食事を下わけですが、アブラハムはその間ずっと「そばに立って給仕をしていた」(8節)と記されています。

本 論:
この物語から特に注目したいのはアブラハムの姿勢です。

 1節では「天幕の入り口に座っていた」とあります。熱砂の荒れ野では日中はあまり活動せず、じっと座って休息する習慣があったのでしょう。
 しかし、8節では、アブラハムは「そばに立って給仕をしていた」とあります。
つまり、こうです。アブラハムは、自分に現れたお方が主なる神ご自身であることを知ったとき、彼は最大のもてなしをして、主なる神の前に立ち続けていたのです。
メッセージが少し飛びますが、
旧約の預言者の一人で列王記に登場するエリヤも神の前に立ち続けた一人です。
列王記上17:2に「わたしの仕えるイスラエルの神、主は生きておられる」とエリヤがアハブ王に告げた言葉があります。これかエリヤの信仰告白です。
実は、「わたしの仕える」と訳された言葉のヘブル語の直訳は「わたしがそのみ前に立つところの」となります。
では、「主のみ前に立つ」とはどういうことを意味しているのでしょうか?

(1)神の絶えず〔現実的な臨在〕を知り、信じて生きること。(臨在信仰)
言い換えれば、「神はインマヌエルの神である」こと、常に共におられること、約束通り、世の終わりまで、私たちと、いや、この私の生涯と共に歩んで下さるおかた であるという信仰の確信を持つこと。

(2)主なる神のみ前で謙虚に仕える生活 (喜んで奉仕する生活)
ある聖書学者は「主のみ前に立つとは“しもべ=給仕”の姿だ」と言ってます。
それは十字架の死に至るまで従順であられた主イエスキリストの姿であり、愛に生きる姿です。

 まとめ:
聖書には、こんな言葉があります、
「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。見よ、わたしはお前の中に霊を吹き込む。するとお前たちは生き返る。」
(エゼキエル37章4〜6節)と」あります。
主のみ前に立ち続けるためには「神の霊である聖霊の力」を必要とします。
神様は必ず皆さんの骨に霊を与え、強め、支えて下さり、「主なる神のみ前に立ち続ける」
キリスト者として下さいます。 祝福を祈ります。


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