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2004/07/18(日)
「再び、隣人とは」(ルカ10:37)大嶋博道牧師
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イエスは言われた「 行って、あなたもおなじようにしなさい。」(ルカ10:37)
序 論: 最大のいましめ ある日、律法の専門家がイエスに「どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねた。 イエスは「神である主を愛すること(申命記6:5引用)」と、「隣人を自分のように愛すること(レビ記19:18引用)」の二つを最も重要な掟、すなわち最大の戒めであると答えられた。 この二つの戒めは一体不可分に結合したものであり、前者の戒めは後者の戒めを支えるものであり、後者の戒めは前者の戒めの具体的な展開である。この二つは互いに結び合わさって働く、一つの生きた愛の両面と言えます。 隣人とはだれか? 英語の「neighbor」は「もっとも近い者」「もっとも身近な者」を意味する言葉です。 それは単に物理的な距離の近さだけでなく、心理的な距離の近さ、すなわち親密な関係の人のことです。 隣人とは本来「共に生きる人間」のことを指し、ある神学者は隣人を「もう一人の自己(another self)」と定義づけています。 このあたりから、イエスが語られた「善いサマリア人」の譬え話を考えてみましょう。 本 論: だれがその人の隣人となったか? 譬え話に登場する人物は3人。追い剥ぎに襲われ、半殺しにされた男の側を最初に通りかかったのは祭司で、彼は神殿に仕える人、礼拝をつかさどる宗教的人間でした。また、次に通りかかったレビ人も祭司の助手ををつとめる 宗教的人間でした。彼らはいずれも傷つき倒れた男の「向こう側」を通り過ぎ、関わりを拒否した人たちでした。 3番目に通りかかったのは、宗教的理由からユダヤ人に蔑視されていたサマリア人で、彼は傷ついた男を見て、憐れに思い、近寄り、自分の持っているものを用いて最大限に介抱しました。彼は祭司やレビ人とは異なり、救助を必要としている人に積極的に関わったのです。 律法の専門家の「私の隣人はだれか?」の問いに、イエス「だれが隣人になったか?」と逆に問われました。答えは明瞭です。 隣人となるとは? この譬え話は、私たちが「隣人とはだれか?」を問う視点から「隣人となる」ことを勧めています。 隣人となるということは、私がその人と共に生きる人となることです 私たちは性格が異なる人やフィーリングが合わない人、人生観や価値観が異なる人とはあまり付き合いたくありません。 まして、このサマリア人のように、恨み憎まれているユダヤ人に対して、これだけの愛情を持つということはなかなか出来ることではありません。 しかしながら、この譬え話の語り手であるイエスは、私たちのところに立ち止まり、傷を介抱し、重荷を負うて下さるお方である。ルターが述べているように、イエスこそが私たちの善きサマリア人なのです。 隣人と「なる」ことから隣人と「される」へ 最後に、E.サンダーシングの説教の中で語られた「冬の吹雪のヒマラヤ山麓での出来事」の物語は、私が誰かの隣人となる時にその人が私の隣人となってくれる、という主客転倒が起こることを教えています。 凍えるような雪山の道に倒れている年老いた男の人をを助けた青年は、自分が彼を背負って歩くことによって凍えることなく雪山を下ることが出来たことを知り、助けた相手によって自分が助けられたことを確信したのです。 「隣人」とは相互関係であり、決して一方通行の関係ではない。人生において私が出会う人、すなわち私の助けを呼び求めている人こそ、実はだれでも私を助ける私の隣人なのです。隣人とは「出会われるべきもの」「発見されるべき存在」なのです。 (ヨハネ15:15)
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