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2004/07/25(日)
フレンズ・サンデー 「どこに落ちたのか」 ( 列王下6:1〜7)大嶋博道牧師
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序 論: 物語を見ておきましょう。 @エリシャと共同生活をしていた預言者仲間から「場所が狭すぎる」との苦情が出た。彼らは、おそらく、家を増築することを願ったのではないか? A彼らはヨルダン川に行って、家を建てるための「梁にする材木を切りに行く」ことを エリシャに提案し、受け入れられた。 Bエリシャも彼らの求めに応じて、ヨルダン川に行って一緒に木を切り始めた。 C仲間の一人の「鉄の斧」が 水の中に落ちてしまった。(水深〜3メートル?) Dエリシャは、斧を落とした男の叫び声を聞いて「どこに落ちたのか?」と尋ねた。 Eエリシャはその場所が示されると、すぐ枝を切り取ってそこに投げた。 Fすると鉄の斧が浮き上がった。彼は自分の斧を再び取り戻す事が出来た。 ●いったい、この6:1〜7節の奇跡物語は私たちに何を教えているのだろうか?皆さんは、この箇所から何を学びますか? 本 論: (1)「ヨルダン川の水」は私たちが生きる罪の世界、「鉄の斧」は私たち多くの重荷を負った人間、そして、「投げ入れられた木の枝」はイエス・キリストと解釈すれば、まず学ぶことは、こういうことです。 イエス・キリストの十字架の贖いによる罪のゆるしと救いを学ぶことが出来る。 「鉄の斧」に象徴されるように、私たちの人生には様々な困難や解決しがたい問題や試練がしばしば 襲いかかり、あまりにも重過ぎて、なかなか浮上することができません。「落ち込む、低迷する」と言った経験はだれもが味わっておられることでしょう。イエス・キリストはそのような私たちのために来てくださったのです。 パウロが述べているように「キリストイエスは罪人を救うためにこの世に来てくださった。」(1テモ1:15) この救いの出来事によって、私たちは罪の深い淵から再び浮上することが出来たのです。 (2)落とした賜物、見失った大切なものを再発見することを学ぶ。 あなたは今、日々の生活の中で大切な賜物をどこかに落としていませんか?置き忘れていませんか?そのことをこの箇所から考えて見たい。「鉄の斧」は、ご存じのように、木を切るための大切な道具です。斧には振りかざすための木がついています。 ところがそれはしばしば抜けてしまうのです。「鉄の斧」が抜けてどこかに落ちてしまったのに、気づかずに、相変わらず木を切り続けているような惰性的な生活をしていないだろうか? 鉄の斧、すなわち大切なものとは、 @仕事ならば「初心」であり「基本」でありましょう。 A家庭生活なら「家族の絆」「家庭の温かさ」「団欒」 B子育てなら「神様から預かったこの小さないのちを慈しみ、愛と忍耐と期待をもって育む心」でしょう。 Cあるいは信仰生活なら「初めの愛」そのものです。 黙示録2:4〜5の「初めのころのから離れてしまった」とエペソの教会への叱責の言葉は、単に最初のころの燃えるような初々しい愛のことではなく、決定的な愛、これがなければすべてが崩れてしまうという本質的な、最も根本的な神への愛のことです。 ●「鉄の斧」が落ちてしまったにもかかわらず、相変わらず「手に残っている棒」で、習慣的に木を切ろうとしていませんか? それはまさにむなしい、意味のない人生です。 まとめ: この物語をとおして、幾つかのことをお伝えしました。 学ぶことは多くあります。気づかなければならないことは多くあります。皆さんがもっともっと聖書に忠実に聴くとき、心を込めて祈り続けるとき、主の十字架のもとに膝づくときに、あなたが 落としてしまった「鉄の斧」すなわち「生きる上で大切なもの」を見出すことが出来るのです。 「鉄の斧」のついてない「棒」では、何一つなすことができません!「あなたの鉄の斧、どこに落ちましたか?」 ―神は必ず見つけてくださいます!
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