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2004/08/29(日) 「しかし、勇気を出しなさい」 (聖書)ヨハネ16:33大嶋博道牧師
あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
フレンズサンディー礼拝
序 論:
冒頭の聖書の言葉は、イエス・キリストが十字架におかかりになる直前、弟子たちに対する最後の言葉〔訣別説教)として語られたものです。
今回はこのみ言葉を主イエスから聴きたいと思います。まず、いくつかのことを考えて見たいと思います。
(1)「勇気」と「平安」を必要とする現代社会
 期待と不安の中で21世紀を迎えて数年、世界は恐ろしい戦争や紛争、テロが各地で勃発し、また飢餓で苦しむ人々が後を絶ちません。国内に目を向けても、景気の低迷は減給やリストラや失業者を生みだし、先行き不透明。加えて多発する青少年の残酷な犯罪、家庭内暴力、虐待。個々人にとっても、健康、仕事、家庭、人間関係、将来のことなど、様々な問題や課題があり、私たちがこの時代を生きるためには本当に真の「勇気」が求められます。
(2)主のご配慮がわかる「しかし」
主イエスが語られたみ言葉には、私たちへの配慮があります。なぜなら主は、私たちが生きる上で味わう様々な試練とその痛みを十分に知っておられ、主はその中にあって、共におられること、深い憐れみと慰めを与え、万事を最善に導いて「益」として下さることを約束して下さり、保証しておられるからです。
本 論:
 主イエス様は「・・・しかし、勇気を出しなさい(Be brave)」と言われました。
ギリシャ語の「サルセオー」は「勇気を出す」の他に「元気でいる」「しっかりする」、さらに「信頼する」「安心する」という意味があります。
 では、「勇気を出す」とはどういうことかを学びましょう。
@主イエスの復活の勝利、甦りの力に与ること。
A主イエスの中に神を仰ぎ望み、信頼していること。
Bすでに世に勝っているという主の「勝利」に信頼し、その中に身を置いていること。
C主イエス・私のチャンピオンに、私の人生の主にしていること。
 本当の勇気とは人生の荒波や嵐を自分の力で乗り越えることでなく、どのような状況に立たされても、主イエスを信じ、その勝利に信頼し、その中に身を置いて平安を得ること、慰めを得ること、元気を得ることです。
まとめ:
チャンピオン(champion)という英語には「優勝者」「第一人者」という意味のほかにもう一つの大切な意味があるそうです。それは「代わって戦ってくれる人」「擁護者」すなわち「大切なことを他の人の代わりにやる役目を負った人」という意味です。
 主イエス・キリストは「わたしは既に世に勝っている」と言われました。主イエス様はわたしたちのために代わって戦ってくださいました。あの苦難の十字架上において!そして私たちのために勝利してくださったのです。
☆真の勇気は、このチャンピオンである主イエス・キリストに一回限りの人生を委ねて生きる中に存在します。
主イエス・キリストによって慰められ、平安を得、元気を出す。それがキリスト教的勇気なのです。

2004/08/22(日) 信徒礼拝「心を動かされた言葉」 (聖書)コリントU15:1〜11西脇衛士勧士
●パウロを動かした神の言葉
 人は神に語られて成長すると言います。アブラハムもモーセもペテロも神に語られ、その使命を全うしました。
今日のテキストを書いたパウロも同じ体験を三度も記しています。(使9:22・26参照)
パウロは肉体的な弱さを持ちながらも多くの艱難に遭遇しましたが、あらゆる艱難を神の恵みと捉え、その恵みは一つとして無駄にならず、「その恵みによって今日の私があるのです」と証しています。その原点はダマスコ途上でのキリストとの出会いであり語りかけであった。 「サウロ サウロなぜ私を迫害するのか、とげのついた棒を蹴るとひどい目にあう」パウロはこの言葉によって、イエスこそ真のメシヤ(キリスト)であると悟らされ、生涯をキリストに献げて伝道した。
 そのパウロが真に伝えたいこととしてキリストが私たちのために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと・・・」でありこれは福音の原点であります。私たちも人生の転機となったことばがあると思います。
●私の信仰生活に転機となった言葉 
 私の信仰生活において転機となった言葉を通して証しさせていただきます。
 @「いつでも、どこでも、どんなときにも神様はそばにおられる」CS礼拝にて幼い頃教会学校の先生によって聖書の神を教えられた。
 A「子供は必ず大人になるとは限らない」
   CS教師研修会でCS伝道の重要性と緊急性を教えられた。
 B「あなたが子供に見せる視聴覚教材である」
   神学校聴講時にてCS教師の生活姿勢を教えられた。
 C「あなたはあなたの家庭に遣わされているのです」
   信徒学校特別講座で家庭に対する立場と使命を教えられた。
 D「バカになりなさい(己に死になさい)」
   ある聖会にて相手を自分より優れたものとする、仕えるものとしての秘訣である。
 E「あなたはわたしを愛するか」
1974年度聖会にてクリスチャンホームに育ち、教会生活を、さんび歌を、聖書をそれなりに、また神様に愛されていることも知っていたが、神様を愛することを知らなかった。信仰とは神を愛することである。愛は一方通行ではなく交わりを求めます。神を愛することによって初めて神の愛を知るのです。
 ●まとめ:
 神は聖書を通してメッセージを通して時には人を通して語られ、聞く者に新しい転機を与えられます。
神はこんなとるに足りない者にも語りかけて下さったのは神の恵み以外何ものでもありません。今朝、私もパウロと同じように「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」とあかししたいと思います。  

2004/08/15(日)  信徒礼拝 「ザアカイ物語に学ぶ」聖書ルカ19:1〜9 畑中 康雄勧士
●この聖書の箇所は私が教会で、牧師から初めて聞いた聖書の箇所です。
それは40年前の夏の特別伝道集会でした。そして話してくださった先生の人柄とみ言葉に惹かれて続いて教会に行くようになり翌年のイ−スタ−に私は洗礼を受けました。謂わば私の信仰生活のスタ−トとなった御言葉です。
●「ロ−マ帝国の税金」は@地租A相続税B売上税C人頭税D関税E奴隷解放税F通行税等々がありました。昔も随分と多くの税金があったのですね。その税の徴収人は徴税請負人とも言われる人で、彼らは契約以上に多くの税を取って私腹を肥やしたので、市民には不人気でした。ザアカイもその徴税人でした。
●さて、ザアカイはイエスがどんな人か見たかったので先回りしていちじく桑の木に登りました。ザアカイは何とかイエス様に出会いたいと願い、その努力をしました。「求め」ました。イエスは上を見上げて「ザアカイ、急いでおりて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われます。何と!イエスはザアカイの名前を知っておられたのす。これが第1の驚きです。そして
第2の驚きは「ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われた事です。ザアカイは神様に受け入れられたのです。そして、神様に受け入れられる事によって罪の悔い改めがザアカイの心の中に起こります。
●「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかからだまし取っていたら、それを4倍にして返します」と。ザアカイが喜びに満たされて自分で出来る事を精一杯為し、罪を償う事を申し出たのでしょう。イエスは言われます。「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と。
●罪ある者を救う為に私たちがイエスを知る前から、既に私を覚え、救いの計画に入れていて名前を呼んでくださる神様に感謝すると共に、この物語から「神様との出会い〜神様を受け入れる事→イエスに従う事→み旨に叶う行動を取る事」から私たちの救いが約束されていると言う事を学びたいと思います。            


2004/08/08(日) 「 前 へ 」〜キリスト者信仰生活の姿勢(フィリピ3:12〜16)大嶋博道牧師
序 論:
 パウロは時々信仰生活を競技者に例えました。例えばTコリント9章24節では「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけ」と言っています。また、パウロはフイリピ3章5節以下で言っているように、この世的には何不自由の無い恵まれた人生でしたが、それらのものをキリスト・イエスを信じる信仰の故に塵あくたと見なすようになったと言っています。
 では、そのようにパウロが言っているキリスト者とは一体どんな信仰生活を送るべきなのでしょうか。今朝のテキストから二つの姿勢を学びたいと思います。

本 論:
(1)クリスチャンの生活のあり方の一つは「後ろのもの、過去に執着しない」と言う生き方です。
 後ろの事、過去の事を忘れるという生き方です。
私たちは過去に未練を持って生きているのが常です。ですからパウロは前進するためには過去を振り返らない事だと言っています。ヘブライ12章1節では「すべての重荷や絡みつく罪むをかなぐり捨てて(拒絶して)」忍耐強く走り抜こうではないかと言っています。後ろを振り向いて「塩の柱」になったロトの妻の物語(創世記19章)はあまりにも有名です。また、風と荒波を見て沈みかけたペテロも同様に、後ろを振り向いた一人です。彼らは後ろを向くことによって、神の言葉を疑う「不信仰」に陥ったのです。

(2)クリスチャンの生活のあり方の二つ目は「賞を得るために前に向かって一心に走る」という事です。前へ行くと言う事は神様が準備していてくださる目標・到達点に向かって進むという事です。そのためには
@聖書のみ言葉への信頼と確信を持つという事
A日々の祈りと賛美の中で神様のご計画を確認するという事
B日曜毎の礼拝を通して心と体を整えるという事
C目を覆いたくなるような現実を見ても忍耐を持って前進するという事
D主イエス・キリストから目を離さないで走り抜くという事
 が大切な事と言えます。

まとめ: 
 私たちキリスト者はその生涯の終わりまで、不信仰ゆえに「後ろを振り向くこと」をしないで、神が「賞」を持って待っておられる永遠の天のみ国であるゴールを目指して前進したいものです。
主イエス・キリストに自らの目をくぎ付けにしながら!(ヘブライ12:1〜2)

2004/08/01(日) 「真の礼拝者になる」 (詩編95:1〜1112:1〜2)大嶋博道牧師
序 論:
 キリスト者にとって、日曜ごとの「礼拝」はどのような意味があるのでしょうか?
ある神学者は「礼拝は私たちの生活の最も本質的で、中心的な部分である」と述べています。
事実、キリスト教は、キリスト者が礼拝を共にし、礼拝からそれぞれの生活の場に遣わされる
ことによって、歴史を積み上げてきたと言っても過言ではありません。
礼拝が生き生きと守られる時、教会は霊的力を持ち、私たちキリスト者は信仰に生きる喜びを感謝しながら、この世にあって証しの生活に励むことが出来るのです。

 では、それほどまでに大切な「礼拝」とは何なのか?
パウロはローマ12:1で「礼拝の意味」を定義し、 「自分のからだを神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です。」と述べています。
礼拝は何よりも「生ける主なる神のみ前に立つ」ことであり、主のすばらしい恵みのみ業に「私たちの全存在をもって応答する」ことであります。

本 論:
今朝は、私たちキリスト者が真の礼拝になるために、礼拝の真の意味を聖書から問い直したいと思います。詩編95編1〜11節をテキストに用います。特にこの中から真の礼拝者になるために大切なことを二カ所取り上げます。

(1)主のみ前に立って心から喜びの賛美をささげること (95:1〜2)
「喜び」は救いを喜ぶこと 「感謝」は同じく救いを感謝することです。
CF:「救われた」という事実を観念的にではなく、体験的に味わった者だけが主のみ前に立ち、喜びの叫び=賛美を心からささげることが出来る。これが真の礼拝者の第一。

(2)私たちが畏敬の念に満ちて礼拝をささげること (95:6)
「畏敬の念」を抱くとは「神を聖なる存在とする」ことであります。
「主の祈り」の中で、「願わくは、聖名を崇めさせたまえ」と祈ります、あの祈り。神のみ前に出るとき、私たちは自らの罪の深さに気づかされます。
 ちょうど、イザヤが神殿で聖なる神の臨在に触れたときに、「災いだ、わたしは滅ぼされる、私は汚れている」と、自らの罪深さを告白したように。(イザヤ6:5)
以前にもお伝えしましたが、礼拝を意味するヘブル語の「シャーハー」は、「ひれ伏す、おじぎをする、従う」という意味でもあります。
私たちは礼拝において全面的に神の前に「服従」が求められているのです。それが礼拝は「献身」であるといわれる所以(ゆえん)なのです。

まとめ:
今朝、この時代の中で、私たちは真の礼拝者とされたいと心から願います。なぜなら、そうでないと私たちは「神に出会う」ことが出来ないからです。ヨハネは「神を礼拝する者は霊と真理とをもって礼拝しなければならない」と言いました。神が霊なるお方ですから。しかし、神は確かに臨在しておられます。
今日からの一週間も、そしてこの暑い8月の間も「主の臨在を覚えながら真の礼拝者として主のみ前に立って、喜びの賛美を歌い続けましょう。そして、畏敬の念に満ちてすなわち、神を聖なるお方として心から礼拝をささげましょう。


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