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2004/08/01(日)
「真の礼拝者になる」 (詩編95:1〜1112:1〜2)大嶋博道牧師
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序 論: キリスト者にとって、日曜ごとの「礼拝」はどのような意味があるのでしょうか? ある神学者は「礼拝は私たちの生活の最も本質的で、中心的な部分である」と述べています。 事実、キリスト教は、キリスト者が礼拝を共にし、礼拝からそれぞれの生活の場に遣わされる ことによって、歴史を積み上げてきたと言っても過言ではありません。 礼拝が生き生きと守られる時、教会は霊的力を持ち、私たちキリスト者は信仰に生きる喜びを感謝しながら、この世にあって証しの生活に励むことが出来るのです。 では、それほどまでに大切な「礼拝」とは何なのか? パウロはローマ12:1で「礼拝の意味」を定義し、 「自分のからだを神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です。」と述べています。 礼拝は何よりも「生ける主なる神のみ前に立つ」ことであり、主のすばらしい恵みのみ業に「私たちの全存在をもって応答する」ことであります。
本 論: 今朝は、私たちキリスト者が真の礼拝になるために、礼拝の真の意味を聖書から問い直したいと思います。詩編95編1〜11節をテキストに用います。特にこの中から真の礼拝者になるために大切なことを二カ所取り上げます。
(1)主のみ前に立って心から喜びの賛美をささげること (95:1〜2) 「喜び」は救いを喜ぶこと 「感謝」は同じく救いを感謝することです。 CF:「救われた」という事実を観念的にではなく、体験的に味わった者だけが主のみ前に立ち、喜びの叫び=賛美を心からささげることが出来る。これが真の礼拝者の第一。
(2)私たちが畏敬の念に満ちて礼拝をささげること (95:6) 「畏敬の念」を抱くとは「神を聖なる存在とする」ことであります。 「主の祈り」の中で、「願わくは、聖名を崇めさせたまえ」と祈ります、あの祈り。神のみ前に出るとき、私たちは自らの罪の深さに気づかされます。 ちょうど、イザヤが神殿で聖なる神の臨在に触れたときに、「災いだ、わたしは滅ぼされる、私は汚れている」と、自らの罪深さを告白したように。(イザヤ6:5) 以前にもお伝えしましたが、礼拝を意味するヘブル語の「シャーハー」は、「ひれ伏す、おじぎをする、従う」という意味でもあります。 私たちは礼拝において全面的に神の前に「服従」が求められているのです。それが礼拝は「献身」であるといわれる所以(ゆえん)なのです。
まとめ: 今朝、この時代の中で、私たちは真の礼拝者とされたいと心から願います。なぜなら、そうでないと私たちは「神に出会う」ことが出来ないからです。ヨハネは「神を礼拝する者は霊と真理とをもって礼拝しなければならない」と言いました。神が霊なるお方ですから。しかし、神は確かに臨在しておられます。 今日からの一週間も、そしてこの暑い8月の間も「主の臨在を覚えながら真の礼拝者として主のみ前に立って、喜びの賛美を歌い続けましょう。そして、畏敬の念に満ちてすなわち、神を聖なるお方として心から礼拝をささげましょう。
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