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2004/09/28(火) 「あなたの現在地」 〜 そこでいいですか?(聖書)創世記3:9 大嶋博道牧師 
献堂8周年記念特別伝道礼拝
   
(新共同訳)主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるか。」
(NKJV) Then the Lord God called to Adam and said to him, "Where are you?"

(1) 「位置確認、自分の飛行機は今どこを飛んでるのか?」
 1985年8月12日、夕方6:12 500余名を乗せた日航ジャンボ機は羽田から大阪へ向かって離陸してまもなく、垂直尾翼の破壊で操縦不能になり、蛇行を始めた。夕闇の空で機長は管制
塔にSOSを発信し、叫び続けた「位置確認、自分の飛行機は今どこを飛んでるのか?」と。故障したジャンボ機は管制塔の応答を聞くことも出来ず、30数分の後、御巣鷹山に墜落した。4人の女性だけが奇跡的に助かったが、残りの貴いいのちは墜落の犠牲になった。

(2)私たちは、現代社会の中で「自分の居場所」を探し求めている!
●ある社会学者は現代社会の特徴を次のように述べています。
@少子・超高齢化社会  A科学万能・コンピューター社会  B価値観多様化社会
C情報過度の混乱社会  D既製ワク崩壊社会 私はこれに E多忙社会を加えたい。
 21世紀が訪れ、現代社会はさらにスピードアップしながら激変しています
●ある心理学者は、このような現代社会に生きる大人の心理を次のように指摘しています。
 孤独と不安と焦りの中で「自分の現在地」を確認出来ないまま蛇行している、と。
「自分はこれでいいのか?」「一生懸命働き、生きてきたが、これから自分はどこへ行くのか?」
皆さんは「現在地」がどこなのか?確認出来ていますでしょうか?

(3)神が最初に問われたこと―「あなたはどこいるのか?」
 神との約束を破り、罪を犯したアダムとエバは、神の顔を避けて園の木の間に隠れました。
神はアダムを呼ばれた、「あなたはどこにいるのか?」と。この問いかけの真意を考えたいと思います。
 @あなたは何をしたのか?(罪を犯して逃げ隠れしているあなたは何者なのか?)
 Aあなたは、今、それをどう感じているのか?(現在の心の体験)
Bあなたはこれからどうするのか?(どう生きるのか?)
これらは、多忙で先行き不透明な現代を生きる私たちに投げかけられた本質的な問いであります。
これらの問いにあなたはどう答えますか? 

D.アイダーの「Repack your bags for the rest of your life」(残りの人生のために自分のカバンの中味を詰め直そう)という本があります。これを参考して、自分の「位置確認」のために、幾つかのことを一緒に考えてみましょう。
(1) 私はなぜ今これ(仕事、学び、信仰、趣味)をしているのか?
(2) 私はなぜ、今、これらの人との関わりを持っているの
か? 
(3) 私はなぜ、今、ここにいるのか?
(4) 私はなぜ、今、これを自分の使命としているのか?
(5) 私のこれからの行き先はどこなのか?最終ゴールはどこか?
本 論:
 「現在地確認」は聖書をとおして、教会をとおして「神と向き合う」ことによってなされます。
自らの「いのち(ビオスとゾーエー)の根源」を問うことによって初めて可能なのです。
@私は神にかたどって造られた存在である。(創世記1:27)
  A私は神の息(ルアッハ)によっていのちを与えられ、生きた存在となったのである。 (創世記2:7)
B私は神を信じ、神のもとに来て、神のみ手の中で憩うまでは真の平安はない。
神の顔をさけて逃げ隠れしている間は真の平安は断じてない!(創世記3:7〜8)
  Cイエス・キリストは私の罪のために十字架にかかって死んで下さり、罪を贖い、永遠の いのちを
   与えて下さったのである。 (ローマ3:24,ヨハネ3:16)
D万事は神が私たちと共に働いて「益(最善)」に導いて下さる。

あなたの「現在地」―それはイエス・キリストと共なる恵みの場、神が与えて下さる「平安と希望のまっただ中」です。神を信じる「信仰」はあなたの現在地を指し示す「管制塔」です。
今朝、共に「現在地」を確認し、豊かな人生を歩みたいと願います。祝福を祈ります。


2004/09/19(日) 敬老の日「黄昏(たそがれ)から平安へ」 ヨハネ20:19〜23大嶋博道牧師 
序 論:
「黄昏(たそがれ)」という言葉があります。広辞苑では「夕方の薄暗くなった時」と説されています。
口語訳聖書に5カ所だけ出てきます。ヘブル語で「ネシェプ」と言いますが、これは新共同訳では「夕暮れ・夕べ」と訳されています。(イザヤ59:10/ゼカリヤ14:7参照)

 年齢に関係なく、私たちには、人生の夕暮れ、黄昏とも呼べるような時が訪れることがあります。何とも言えない空しく寂(さび)しい気持ちに包まれ、ただ佇(たたず)むしかない、そのような時であります。本当の夜の暗闇がまもなく襲って来るようで、前に一歩も踏み出すことが出来ず、何をしても無駄なことのように思え、不安や恐れの中で希望が消えてしまうような危機的な時であります。
 
 今朝開いたテキスト、ヨハネ20:19〜23には、まさに孤独と不安で身動きすることさえ出来ない弟子たちが登場します。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方」―主イエス様が復活された日の夕方です。まさに弟子たちの心の状態と同じような「黄昏どき」であります。
 21:19は彼らの心がそのまま行動になって表れています。
「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」彼らの怖れは、ユダヤの指導者たちやローマの軍隊に自分たちもイエス様と同じように捕らえられ、あるいは殺されるかも知れないというものでした。社会から見放され、捨てられてこれからどうしたらよいのだろうかという「先が見えない」恐れでした。
 
 しかしながら、ヨハネ4:19〜を見ますと、復活したイエス様はこのような孤独な世界、身動きが出来ずにただ空しさだけがただよっているような「黄昏どき」のまっただ中に立たれるのです。 「イエスが来て、真ん中に立ち、あなたがたに平和があるように」と、言われた。 Peace be with you (平安があなたがたにあるように)

本 論:
復活された主イエス・キリストの「平安」とは何でしょうか?二つ述べましょう。
(1)神が共におられるという「臨在」であります。
聖書の約束は一貫して「恐れるな、神があなたがたと共におられる」というものです。だれかが共にいてくれる、ということほど心強いことはありません。その人が何もしなくてもいい、何も話してくれなくてもいい。ただ、側に一緒にいてくれるだけで。怖れや不安は取り除かれるのです。
 マザーテレサはそんな人でした。瀕死の状態の貧しい病人を抱きかかえ、静かに「あなたは神様に愛されています。神様はあなたと共におられます。」と声をかけて、その人の最期を看取ってあげました。

(2)孤独と絶望が終わりを告げる「希望」そのものです。
イエス様は弟子たちに二度も「平安があるように」と言われました。(20:19,21)20節を見ると、イエス様は十字架の傷痕を弟子達に見せられました。
「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。平安の約束、復活の主イエス様との再会をとおして彼らは大いなる喜びに満ちあふれ、希望へと変わっていったのです。「希望」は人生の黄昏(たそがれ)を支え、明日への勇気を与えます。

まとめ:
 「平安があるように(シャローム)」、この言葉の下で、私たちの黄昏の時はうち破られ、終わりを告げます。
閉ざされた戸は、大胆に開かれ、孤独や空しさ、うち沈んだ沈黙は払拭されるのです。復活されたイエス様の「平安があるように」の力強い語りかけは、暗い死に向かって歩んでいく道から、喜びと感謝と希望に生きることに向かって歩み出す道へと私たちを導いてくれるものです。


2004/09/12(日) 「レプタ2枚の献げ物」 (聖書)マルコ12:38〜44大嶋博道牧師
はじめに:
私たちが神様にささげる「献金」は信仰の本質にかかわるものです。それは、「神への感謝と献身の見えるしるし」 だからです。言い換えれば、主イエスキリストにおいて成就した「神様の聖なる救いのみ業」に対する私たちの真実な「応答」を意味するからです。今朝は次の5つのことを学びましょう。
本 論:
(1)「献げもの」の始まり(創世記4:1〜5)
 旧約聖書に登場する人物で、最初に神に献げ物をしたのはカインとアベルの二人です。
兄カインは土の実りを、弟アベルは羊の群れの中から肥えた初子を神にささげました。おそらく「神への感謝」のしるしとしてこのような献げ物をしたのでしょう。
 アブラハムとそれに続く族長たちもしばしば宗教的祭儀として祭壇を築き、神に「犠牲」を献げました。彼らは祭壇に雄牛や羊や山羊、時には鳥や野菜などを携えてきて、犠牲として献げました。

(2)献げ物の基準について―どれだけ献げたら良いのか?
 古代人の間では、その年の収穫期には農産物や家畜の最も上等なもの、さらに戦利品などの十分の一を神に献げる習慣がすでにありました。アブラハムは、戦いに勝利した時、メルキゼデクにすべてのものの「十分の一」を贈りました。(創世記14:20)
申命記には、毎年その年の農産物の収穫の十分の一を牛や羊の初子と共に神の前に携えてきたり、さらに十分の一をレビ人、寄留の外国人、孤児や寡婦などの貧しい人々のために与える習慣があったようです。
 ご存じのように、「十分の一」の根拠としてよく引用されるのがマラキ書3:10です。「十分の一」の規定は律法の公平な基準で、無理のない献げ物であったようです。

(3)信仰生活における「献金の意味」について
 私たちが信仰生活の中で神に献げる献金の深い意味は@神への献身のしるしであり A神への全存在からの信頼の証しであり B神への感謝や賛美の具体的なしるしであります。「献身」と「信頼」と「感謝」―ここに献げ物の本質的な意味が存在するのです。

(4)「献金」をささげる心のあり方―どんな気持ちで献げたら良いのか?
 今朝の聖書の箇所は、私たちの「献金」をささげる心のあり方を、はっきり示しています。
主イエス様は、当時の最小貨幣である「レプタ二枚」しか献げられなかった 貧しい女性を称賛し「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れる人の中で、だれよりもたくさん入れた」と言われました。この意味は最後に触れます。
コリント二9:6〜8でパウロはキリスト者にこう勧めています。
@惜しむ心からではなく―悲しむ、心配する、苦痛を感じる。
A強いられてでもなく―強制、無理をさせられる。「そうせずにはおれない−自発的」
B心で決めたとおり―自分で選ぶ、決心する。
パウロの勧めを聞いていると結局、献金は「信仰」がなければ決して出来ないということです。
最初にお伝えしましたように、献金は信仰の本質に関わっているということですね。

(5)“レプタ二枚”に託した貧しい女性の信仰
貧しいやもめが献げたレプタ2枚はサイズが一円玉位で、薄くて軽く、今日では数十円にも満たない当時の最も小さな銅貨でした。しかし、イエス様は弟子達に「この貧しいやもめは誰よりもたくさん献げた」と言われた。
なぜでしょうか?それは彼女が生活費の「100パーセント」を献げたからです。
100%の生活費=それは彼女の今日と明日を支えるもの、すなわち「いのちそのもの」です。それを献げたということは、彼女は全存在を主なる神に委ねたということなのです。
まとめ:
 今朝のメッセージのまとめをします!
@私たちが今所有しているもの―お金やモノ、財産、健康、能力、時間、すなわち「いのち」はすべて神からの贈り物であり、神に所属しています。私たちのものは実は何一つないのです。生きるために神様から必要なものだけ預かっているだけです。
A神様は私たちの必要をすべてご存じで備えておられる。「アドナイ・イルエ」
B天の窓を開いて、恵んでくださるお方ですから、「献げもの」をもって、神を試みる ことが出来るのです。
C私たちを根底から支えておられる神に全存在を委ねて歩みたい。
 十分の一を喜びと感謝と信頼をもって献げる時に、神はさらに豊かに祝福してくださいます。

2004/09/05(日) 「キリストの愛から離れない」(聖書)ローマ8:31〜39(7)大嶋博道牧師
総員礼拝説教
序 論:
パウロは、31節から「では、これらのことになんと言ったらよいだろうか」と、自分で問いを投げかけ、自分でそれに答える「デイアトリベ話法」を用いて自らの信仰の確信を語っております。
具体的には39節までに「だれが・・・・・・・できますか?」という4つの予想される質問を読者に投げかけ、読者が納得できるように十分な答えを自分で述べております。
(1)だれが私たちに私たちに敵対できますか?」(8:31)
(2)だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう?」(8:33)
(3)だれが私たちを罪に定めることが出来ましょう?」(8:34)
(4)だれが、キリストの愛から私たちを引き離すことが出来ましょう」(8:35)
本 論:
(1)だれが私たちに敵対出来ますか?」―(答え)神は私たちの味方です!「味方」というのは原文では〔ヒュペール〕、これは「〜の側にいる、〜のためにいる」という意味で、そこから「味方」と訳されたのではないかと考えられます。
神が私たちの味方である三つの印は以下の通りです (ローマ8:26〜30から)。
(1)弱い私たちに対して、神の御霊がうめきの執り成しをして下さる。(8:26)
(2)神がすべてのことを働かせて益として下さる。(万事を益に)(8:28)
(3)神は現在ふさわしくない者をも義とし、栄光をお与えになった。(8:30)

(2)だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう」
        (答え)―神は人を義(正しい者)として下さる。
私たちを訴える者は誰でしょうか?それはまことの神の支配を喜ばしく思わないサタンでありましょう。パウロも論敵から彼の「信仰義認」を不十分とする訴えを聞いたことでしょう。
でも、その訴えは退けられます。なぜなら、神が義と認めて下さるからです。

(3)だれが私たちを罪に定めることが出来ましょう?
(答え)―復活された主は神の右に座して執り成しておられる。罪の宣告ほど恐ろしいものはありません。定めるとは「断罪される」「切り捨てられる」ということで、背景には、当時の最も重い「死刑」が想定されています。 しかし、イエス・キリストは弁護を求められた時、ご自身の身代わりを持って執り成して下さるのです。

(4)だれがキリストの愛から私たちを引き離すことが出来ましょう?
     (答え)―私たちはキリストのものとされている!キリスト者はキリストの愛、神の愛から絶対に引き離されない、分離されないことが強調されています。パウロが私たちに伝えたいのは、キリストのために苦しむこと、十字架を背負うことは、キリストとの真実な交わりにあずかることであり、キリストの愛にあずかること、私たちがキリストのものとされることであるというのです。

私たちは「風」や「波」を見て恐れ、戸惑い、迷い、信仰が衰えます。試練や困難な問題に直面すると、神の愛、十字架の愛をどこかに忘れてしまいます。
パウロはそのような私たちにこう呼びかけ、励ましています「神は私たちの味方である」と。
まとめ:
 キリスト者は絶対キリストの愛から離れてはなりません!いや、離れるはずがないのです。
なぜなら、神は常に私たちの側に、私たちに益をもたらすためにおられ、私たちの力強い味方ですから!
今日からまた「圧倒的勝利者」「勝ち得て余りがある」信仰生活をはじめたいと思います。
祝福をお祈り致します。


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