|
2004/09/19(日)
敬老の日「黄昏(たそがれ)から平安へ」 ヨハネ20:19〜23大嶋博道牧師
|
|
|
序 論: 「黄昏(たそがれ)」という言葉があります。広辞苑では「夕方の薄暗くなった時」と説されています。 口語訳聖書に5カ所だけ出てきます。ヘブル語で「ネシェプ」と言いますが、これは新共同訳では「夕暮れ・夕べ」と訳されています。(イザヤ59:10/ゼカリヤ14:7参照)
年齢に関係なく、私たちには、人生の夕暮れ、黄昏とも呼べるような時が訪れることがあります。何とも言えない空しく寂(さび)しい気持ちに包まれ、ただ佇(たたず)むしかない、そのような時であります。本当の夜の暗闇がまもなく襲って来るようで、前に一歩も踏み出すことが出来ず、何をしても無駄なことのように思え、不安や恐れの中で希望が消えてしまうような危機的な時であります。 今朝開いたテキスト、ヨハネ20:19〜23には、まさに孤独と不安で身動きすることさえ出来ない弟子たちが登場します。 「その日、すなわち週の初めの日の夕方」―主イエス様が復活された日の夕方です。まさに弟子たちの心の状態と同じような「黄昏どき」であります。 21:19は彼らの心がそのまま行動になって表れています。 「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」彼らの怖れは、ユダヤの指導者たちやローマの軍隊に自分たちもイエス様と同じように捕らえられ、あるいは殺されるかも知れないというものでした。社会から見放され、捨てられてこれからどうしたらよいのだろうかという「先が見えない」恐れでした。 しかしながら、ヨハネ4:19〜を見ますと、復活したイエス様はこのような孤独な世界、身動きが出来ずにただ空しさだけがただよっているような「黄昏どき」のまっただ中に立たれるのです。 「イエスが来て、真ん中に立ち、あなたがたに平和があるように」と、言われた。 Peace be with you (平安があなたがたにあるように) 本 論: 復活された主イエス・キリストの「平安」とは何でしょうか?二つ述べましょう。 (1)神が共におられるという「臨在」であります。 聖書の約束は一貫して「恐れるな、神があなたがたと共におられる」というものです。だれかが共にいてくれる、ということほど心強いことはありません。その人が何もしなくてもいい、何も話してくれなくてもいい。ただ、側に一緒にいてくれるだけで。怖れや不安は取り除かれるのです。 マザーテレサはそんな人でした。瀕死の状態の貧しい病人を抱きかかえ、静かに「あなたは神様に愛されています。神様はあなたと共におられます。」と声をかけて、その人の最期を看取ってあげました。 (2)孤独と絶望が終わりを告げる「希望」そのものです。 イエス様は弟子たちに二度も「平安があるように」と言われました。(20:19,21)20節を見ると、イエス様は十字架の傷痕を弟子達に見せられました。 「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。平安の約束、復活の主イエス様との再会をとおして彼らは大いなる喜びに満ちあふれ、希望へと変わっていったのです。「希望」は人生の黄昏(たそがれ)を支え、明日への勇気を与えます。 まとめ: 「平安があるように(シャローム)」、この言葉の下で、私たちの黄昏の時はうち破られ、終わりを告げます。 閉ざされた戸は、大胆に開かれ、孤独や空しさ、うち沈んだ沈黙は払拭されるのです。復活されたイエス様の「平安があるように」の力強い語りかけは、暗い死に向かって歩んでいく道から、喜びと感謝と希望に生きることに向かって歩み出す道へと私たちを導いてくれるものです。
|
|
|