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2005/01/16(日)
「主の驚くべきみ業を覚えて」(詩編111:3〜4)大嶋博道牧師
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まず、この教会標語が与えられた理由を述べます。 今年2005年は私たちの教会が一つの「節目」を迎えます。伝道所が設立されて20年目、新会堂が献堂されて10年目になります。私たちの教団も「新教団設立20年」の歴史を刻みました。教会や教団の節目だけでなく、本質的には、聖書はキリスト者の信仰生活そのものが「主の驚くべきみ業」を心に刻むことによって成り立っていることを教えているからであります。
序 論: 主の驚くべきみ業とはいったい何でしょうか? (1)歴史における神のなされた聖なる、偉大な行為です。 それは、旧約においてはイスラエルの民の出エジプトの出来事やバビロン補囚からの解放に現された神の聖なる救いのみ業。 新約におけるイエス・キリストの十字架の贖いの死と復活によって現された神の救いのみ業。
(2)自然界における神の創造のみ業 天地創造において、紅海の奇跡において、荒れ野の40年の導きにおいて。 先日、第10回阪神大震災メモリアル集会が神戸国際会館で催された。なぜ、「神戸が揺さぶられたのか。」これは被災された多くの方々の問いであります。 また昨年末にはスマトラ沖で大地震が発生。インド洋大津波によって17万人を超える人々が犠牲になりました。「なぜ、スマトラ?」これも同様の問いであります。 しかし、未だにその答えは見いだせません。確かなことは神はそれでも歴史を支配しておられ、自然を治めておられるということです。 (3)私たちの日常生活においてなされる神の配慮のみ業 仕事、学び、家庭生活、子育て、社会生活、趣味、旅行、健康などあらゆる生活の場面で神様のご配慮を見ることができます。神様は最善をなして下さいます。そこに驚くべきみ業が存在するのです。 まとめ: 今年一年、「驚くべきみ業」を心に刻みながら歩みましょう。一年を終わって、あなたはどれだけ神様の驚くべきみ業に与ることが出来るでしょうか? なお、本論の「驚くべきみ業とどう向き合って生きるか」については次回に学びます。
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