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2005/01/23(日)
「よくなりたいなら」 ヨハネ5:1〜9大嶋博道牧師
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フレンズサンデー礼拝
序 論: 主イエス様は「ベトザタ(ベテスダ)」と呼ばれる場所にいきました。ベトザタとは「あわれみの家」という意味です。そこには、たくさんの病気を背負った人がいました。 聖書は、四種類の病んでいる人がいたということを伝えています。 @第一は、大勢の病人です。―弱った人、気力の萎えた人 A第二は、目の見えない人(盲人)でした。―真理を理解出来ない人 B第三は、足の不自由な人です。―自立出来ない人 C第四は、やせ衰えた人です。 ―絶望の中で生きる体力・気力を失った人 これらの病人は、当時の言い伝え(迷信)や超能力への期待を抱いて激しい「飛び込み競争」を繰り広げていました。それは表面的な形はちがっても、私たちのよく見かける現代の光景と似ています。 主イエスは、最も助けを必要としながら、誰も助ける人のいない一人の男に目を注がれました。彼は38年も病気に苦しんでいた人でした。 主イエスはこの男に「良くなりたいか」と声をかけられました。質問は唐突で得あり的はずれのように思われますが、実は最も核心をつくものでした。それは、彼が絶望への安住や弱さへの居直りの中にいたからです。
主イエスは、この対話を通して、彼の病いの現実を一層はっきりと浮かび上がらせなさいました。 その上で、彼の絶望の壁に穴をあけるように、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。
本 論: 私たちは今年一年、健康で幸せな生活をしたいと願っています。もっともっと祝福されたいと願っています。私たちがよくなるために、ヨハネ5:9から二つの大切な命令を聞きましょう。
(1)信仰をもって起きあがること この「起き上がる」という言葉には、重要な意味があります。父なる神が御子を死者の中から立ち上がらせられた出来事、すなわち「復活」をあらわす言葉です。主イエスはご自身の十字架と復活を指さしながら、私の与える命によって生きよ、と命じられたのです。
(2)自分の床を担いで歩くこと さらに、「床を担いで歩きなさい」と言われます。これまでの汗と涙が染みついたマットです。 それを担いで歩けとは、彼が38年間の苦しみの現実をしっかりと受けとめながら、今やそのような自分が主イエスのみ言葉によって生きる者とされたことを、証しするためでした。
私たちの信仰生活とは自分を縛り付けている困難や苦しみの現実からの逃避ではなく、むしろ、この重い現実を逆に担って生きることなのです。 仕事、家庭生活、立ちはだかる諸問題、人間関係、自らの健康など、自分を押しつぶすような現実を大胆に担って歩くこと―これこそ本当の生きた信仰生活なのです!
まとめ: イエス様の言葉を聞くだけで終わるなら、何も始まりません。その言葉に従って一歩踏み出すことが大切なのです。さあ、今年も起きあがり、自らの人生をしっかり引き受けて歩みましょう。 疲れた時、弱った時は主ご自身をあなたを背負って下さいますから。
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