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2005/11/27(日) 「恵みを無駄にしない」大嶋博道牧師
収穫感謝記念礼拝(聖書)コリント二 6:1〜10

恵みの現実
 信仰者の歩みはキリストの尊い十字架の恵みによって四方から強く支えられています。また、復活の主の導きと守りの中に置かれています。さらに、御霊の力強い導きのもとにも置かれています。これは間違いのない信仰の現実であります。
ご存じの方も多いと思いますが、「神の足跡(footprint)」という詩があります。
 この物語は、恵みについて大切なことがらを教えています。それは、どんな時でも、特に人生の中で最も困難で苦しみの中に置かれている時に、神は伴い、担い、すべてを引き受け、持ち運んで下さるという信仰の事実です。これこそ「恵みの現実」であります。

神の恵みの生活化
 宗教改革者マルチン・ルターが言うように、私たちは善行や修行によってではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義とされ、救われます。これほど高価な恵みは存在しません。
しかし、無代価によって賜った恵みを実感出来ないで「無駄にしている」ことも事実です。
コリント二の6:1でパウロは「神からいただいた恵みを無駄にしてはなりません」と述べています。強い命令です。無駄というギリシャ語のケノスは「空洞化する」「空虚にする」という意味でもあります。宝である恵みをガラクタにしてしまうということです。
 私たちが日曜日の礼拝や日々のデボーションをとおして受ける恵みを形骸化して、そこに喜びや感謝や平安や希望を抱くことが出来ないで不平や不満を感じたり、個人的な都合を優先して神様
との関係をなおざりにするならば、まさに「恵みを無駄にしている」ことになります。神の恵みの生活化こそ、キリスト者にとって大事なのではないでしょうか!

真に恐れるべきもの
 現代人の根本感情は不安と恐れであると言われています。人間のいろいろな理想、価値観、イデオロギーなど存在の根拠と目されてきたものが、ことごとく壊れていき、はじけたのはバブルだけでなく、家庭もはじけ、学級も崩壊し、社会そのものが危機に瀕している。そうした中で人間の人格そのものの崩落も著しい現状です。そこに不安と恐れの原因があります。
昨今、人間は本当に恐れるべきものを恐れているかどうか。誰でありそれをしっかりと知っているかどうか、そこのところが実は問題なのです。その根本的な問題が解決されない限り、どういう風に生きていくかという問題から始まって、広く文化や技術の問題、また人間の歴史に関係する民族などの諸問題にしても、人間の分別にだけ頼っていたのでは、なかなか根本的な解決をみないという反省をこの恐れという言葉から教えられます。
この世界と人間を創造された真の神を生活の柱にして生きることこそ最も大切なことなのです。
 
まとめ:
スコットランドの宗教改革者ジョンノックスの墓石に「ここに神を畏れた人が眠る」と刻まれているそうです。
私どももまた教会全体としてもそういう風に要約されるような歩みを全うしたいと思うのです。また、神様に対する恐れも畏敬も全くなくそれ故にあらゆる混乱、混迷、混沌に陥り、その中を右往左往しているこの社会、この町、この世界において神への「畏れ(心からの畏敬)」「神の恵みの共同体」を拡大していくこと、それがすなわち我々の使命なのだということを今朝、心に刻みましょう。
主の恵みを決して無駄にしてはなりません。

2005/11/20(日) 「今年もこのままに」大嶋博道
聖日礼拝(聖書)ルカ13:6〜9

まず、イエス様の譬えで使用されている言葉の意味説明します。

(1)ある人ー天国の主人である神様
(2)ぶどう園−天国
(3)いちじくークリスチャン
(4)園丁ーイエス様
(5)3年も実がなかった−信仰生活の中での成長の実が見られないこと。

 このように考えますと、この譬え話が意味することがよく理解できます。
さらに、この譬え話の直前の物語の強調点は「悔い改め」ですから、この譬え話も、私たちの悔い改めの必要性が語られているわけです。幾つかのことをお話します。

(1)神は実りを期待しておられる−実らない人間(12:6)
 たとえ話には、実りを楽しみにしている主人が登場します。ブドウ園には、さまざまな樹が植えられ、いちじくは1年ごとに実をつけるものと言われています。この主人は、人間に対して実りある歩みを期待しておられる神の姿です。
実りある歩みとは、キリストにあるすばらしい生涯の歩みです。それに対して、実りのない歩みとは、キリストにつながっていながらくすぶっているような歩みを指すのでしょう。
私たちに与えられている歩みは、本来実りある歩みです。また、神もそれを切に願っておられます。
ちょうど、この主人が実りを楽しみにして足を運んできているように、です。

(2)神の厳しさ(12:7) 精算を求められるお方
 ところが、実りを期待されているいちじくの木は3年にもわたって実をつけなかったと言います。主人はこの木を切り倒してしまうように命じました。文脈からいうと、実りのない歩みを続ける者が悔い改めないならば、永遠の滅びに定められることを示すのでしょう。実りのないものが実らないまま許されて、植え続けられるということは、あり得ないことなのです。

(3)イエスキリストの執り成し−(12:8)
 しかし、ブドウ園の番人(園丁)は、もう一年の猶予を与えるように執り成します。入念な手入れをして、その上で実りをつけるかどうかが問われることになるのです。仮に私たちが実りのない信仰生活を歩んでいたとしても、イエス・キリストは私たちのためにこのような執り成しをして下さるのです。

(4)悔い改めと応答の生活
 この箇所の中心は、神の忍耐とイエス・キリストの愛の執り成しに対して、私たちは心から悔い改めること、そのしるしとして神に応答する生活をこころがけることです。それは、次の4つの面から始めましょう。
@神のご計画を知ること(み言葉と祈りとメッセージ)
A示されたとおり行動すること(悔い改め、礼拝生活、奉仕の生活、献身の生活)
B結果は主にゆだねること(神の最善を信じて全力を注ぐこと)
C豊かな実を結ぶこと(ヨハネ15:5)

まとめ: 
「今年もこのままに」と神に取りなして下さるイエス・キリストの愛と忍耐を日々心に刻みながら、豊かな実を結ぶ生涯を送りたいものです。今週はせめて「喜びの実」を結びましょう!


2005/11/13(日) 「誰が一番偉いか」大嶋博道牧師
子ども祝福礼拝
 (聖書)ルカ9:46〜48/ルカ22:24〜26

●今日の聖書によると、弟子たちの間で、自分たちの中で誰が一番偉いのかと言う議論が起きた。この「自分たちのうちで誰が一番偉いか」と言う議論は同じルカ22章24節以下にもあります。そしてここでは「また」とある様にしばしばこのような議論があったようです。弟子たちの間では誰がイエス様に一番近い席に座れるかが大きな関心事であったようです。

●この「誰が一番偉いのか」と言う問いにイエスは「あなたがたの中で最も小さいものこそ最も偉い者」と答えられました。また、22章では「一番偉い人はいちばん若い者のようになり、上に立つ人は仕える者のようになりなさい」と言われています。

●謙遜になる事は自分以外の誰にでも仕えると言う事です。この当時、人の数を数える時にその数に入っていなかった「子ども」の手を取り「この子どもを受け入れる者は、私を受け入れる者」と言われました。即ち、自分を低くする者が受け入れられる者と
言われたのです。

●子どもは1人では生きてはいけません。親にたより「親に依存」して生きていかねば生きられない存在なのです。このような状況下で「子どもが親に依存するように」人は「神に依存して生きていかねばならない」事を教えられたのです。このように「神に依存して生きる者」が一番偉い者であると教えられたのです。

●今日の学びである「一番偉く生きる生き方」とは、フィリピの手紙2章2節にある
@「同じ思いとなる生き方(自己中心でない生き方)」
A「同じ愛を抱く(共感する生き方)」
B「心を合わせ、思いを一つにする生き方(調和ある生き方)」
C「相手を自分より優れた者とし、へりくだって生きる生き方(謙虚な生き方)」
  そして
D「他人のことにも注意を払う生き方(思いやりのある生き方)」

その様な生き方〜神様が私たちに期待しておられる生き方と言えるのではないでしょうか。       

2005/11/06(日) 「天の住処」 大嶋博道牧師
召天者追悼記念礼拝(聖書)コリント二 5:1〜10

はじめに
 今日は召天者追悼記念礼拝を守ります。この礼拝は故人の魂を慰めたり平安を祈るためではありません。私たちが供養する必要はないのです。すでに天国で神のみ手の中で平安のうちに憩っておられるのですから。
むしろ、私たちは天国がいかに幸いなところかを確認したいと思います。今朝のテキストはそのことを教えた箇所です。

本 論
 今日は与えられた聖書の箇所から次の三つの事を学びます。
(1)地上の住処である幕屋に生きるキリスト者
「幕屋」とは移動用のテントのことです、「幕屋」は今、この世で生きている私たちの体を意味します。この世は仮の宿であり、一時的(一瞬)です。いつまでもしがみつく場所ではないのです。そして私たちは弱く壊れやすい存在です。

(2)天にある永遠の住処を待ち望むキリスト者
 私たちは永遠の住処を待ち望む存在です。1節・4節にあるように私たちには永遠の住処を神様が用意していて下さいます。私たちは霊をとおして、神様が迎えてくださるという信仰を持っています。天に迎え入れられるためにはこの世の功績や財や地位は必要ではありません。ただ「信仰によって」のみ天に入れられるのです。

(3)ひたすら主に喜ばれることを願って生きるキリスト者
 私たちは永遠の住処に迎え入れられるまでの間、仮の宿であるこの地上でどのような生活を送ればいいのでしょうか?それは、ひたすら主に喜ばれる(気にいられる)生活を心がけることです。では、ひたすら主に喜ばれる(9節)者とはどういう生き方でしょうか。

 それはイエス・キリストに倣う生き方です。
主は私たちがイエス・キリストのように生きる生き方を望んでおられます。つまり、そのような生き方とは「信じる事」「愛する事」「赦すこと」「心から献げる事」であります。
 
 私たちがキリストの裁きの座の前に立つ時、善であれ、悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けるとが今日のみ言葉の10節に書かれています。そのことを心に留めながらひたすら信仰生活に励みたいと思いま
す。
 
 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩を紹介しましょう。これは彼が亡くなる2年前に病床で手帳に書き綴った「祈り」です。


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