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最新の絵日記ダイジェスト
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2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

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2005/02/28(月) 「共に歩む生活」(聖書)コロサイ3章1節〜17節 西脇衛士勧士
 愛する者と共に歩む生活をすることほど楽しいものはありません。二人は一体となり、喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ(ロ−マ12:15)
運命共同体となるのです。信仰とは真にイエス・キリストとの結婚を意味します。

○今朝コロサイ書に記されている「共に」という言葉の中にある大きな恵みを学びたい。
コロサイ書の中に「キリストと共に」という言葉が7回出てくる。キリストと私は一体とされ、運命共同体として、キリストと共に葬られ、復活させられ、共に生かして下さったのである。
(2:11〜13) しかし、私達は以前は神から離れ、悪い行いによって、心の中で神に敵対していた者(1:21)であったが、今やイエス・キリストの十字架によるあがないにより、その死によって神と和解し、神の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者(1:22)として下さった。

 ○パウロは「このような素晴らしい立場を与えて下さったのだから、地上のものを求めるのではなく、上(神)にあるものを求めなさい」と言っているのである。ここでパウロは対比したことばで説明している。
脱ぎ捨てることと身に着けること、古い人と新しい人である。では、

何を脱ぎ捨てるのか。
「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、貪欲、(3:5)怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉(3:8)であり古い人をその行いと共に脱ぎ捨てなさい」と言って
いる。

何を身に着けるのか、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい(3:12)これら全てに加えて愛を身に着けなさい(3:14)」と言っているのである。
 
○しかし、クリスチャンになってもなかなかこの聖霊の実をつけられずに苦しむのである。
その解決にはもう一つの共にがある。それは「キリストと共に十字架につく」ということである。(ガラテヤ2:19)それは完全な自己放棄であり、この世に対して死ぬという経験である。この世に死ぬとは、自分を全く無にし、またこの世の価値観で生きるのではなく、神の前に、人の前に全くへりくだり、神の価値観で生きるということである。その時キリストの平和が与えられ、キリストと一体とされるのである。私はキリストの内に在り、キリストは私の内に在るというのである。これは世々にわたって隠されていた奥義である。

 ○ですから私達は日々主と共に歩く者でありたい。その為に(3:16〜)みことばを豊かに宿らせ、主の教えを学び、語り、さんびと感謝をもって生活したいものである。「エノクは
神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」(創世記5:24)今までのむなしい生き方をやめ、私達も主と共に歩む生活をなし、エノクのごとく神の国へ導き入れられたいもので
ある。             

2005/02/20(日) 「望み得ない時になお望んで」ローマ4:13〜21大嶋博道牧師
序 論:

●人生は冒険だと言われます。「冒険」とは、成功が確かでない事を敢えてする事を言います。「アドベンチャー」です。神様は私たち一人一人を「あなたは高価で貴い。だから、いろいろなことがあるけれども、この地上での人生の冒険を楽しんでおいで。私はいつもあなたの側にいるから。」と言ってこの世に送り出して下さいました。だからこそ、神と共にする人生の冒険は楽しいものなのです。

●創世記12章からアブラハムが登場します。このアブラハムは神の声を聞いた時に躊躇せずに、しかも「行く先を知らずして」(ヘブル11:8)出発します。
神様の約束を信じて自分の人生を神に賭けたのです。このアブラハムの「冒険」を支えていたものは何だったのでしょうか。そしてこの事は私たちの人生の冒険を支えるものは何かと言う問いの答えにもなります。

本 論:
●その第@は「希望」です。希望〜望みとはある事を成し遂げる〜未来を確信させるモデル(Model=手本)であり、それを成就させるエネルギ−です。今の若い人々は一体何を、誰をモデルに人生を歩んでいるのでしょうか。
現代の日本の一つの課題ではないでしょうか。

●そのAは「信頼」です。必ず祝福すると神がアブラハムに言われた言葉に信頼したからこそ、やがて「子孫が」そして「住む地」が約束通り与えられました。アブラハムが神様の言葉を、まだ見ないものを、信仰に基づいて信頼して待つ事が出来るたのは、「信頼」に基づく「希望」が有ったからです。 

今月号の「教会だより」にユンゲン・モルトマンの「希望の神学」という著書の中にある言葉を載せています。そこには信仰と希望との相関関係が詳しく説明されています。「希望とは信仰の確信に従って、神によって真に約束されたことを待望すること」であります。

●そして第Bのものは「忍耐して待つ」と言う事です。「彼は希望するすべもなかった時に、なおも望みを抱いて、信じた」(ローマ4:18)とあるように「希望と向き合って」神の約束を確信し、忍耐して待つ事が大切です。その時に神様は私たち1人1人をもアブラハムと同じように豊かに祝福してくださるのです。
「忍耐」とは、じっと静かに待っていることではなく、問題や課題に向き合い勇敢にそれらと取り組み、最善の努力をはらうことなのです。
人は希望と共に大きく成長します。皆様の祝福をお祈り致します。

2005/02/13(日) 「あなたは良い地ですか」(聖書)ルカ8:4〜8 大嶋博道牧師
●この聖書が書かれた当時のイスラエルの農業生活がこのみ言葉に反映されていて、当時の人々には良く分かる譬えでした。当時の種まきは、種の入った袋に穴を開け、人が背中に背負ったり家畜に結びつけ、袋の中の種を蒔く方法で種まきをしていました。
 だから良い地に落ちる種もあれば悪い地に落ちる種も有ったのです。

●この聖書のヶ所は「末尾強調の法則」によって書かれています。即ち途中に出てくる言葉はさほど問題ではなくて最後に出てくる言葉を大切にして語る手法ですが、この聖書の譬え話しもこの最後の言葉に意味があります。そしてこの譬え話しの意味は8章11節〜15節に説明されています。

●12節にある「道端のもの」とは、み言葉が与えられたのだが、そのみ言葉が盗まれてしまって信じて救われる事のない人を指します。また、13節の「石地のもの」とは、喜んでみ言葉を受け入れるのだが、根がないので試練に遭うと、み言葉を捨ててしまう人を指します。そして、14節の「茨の中に落ちた」とは、み言葉を聞く事は聞くが、途中で人生の思い煩いや冨・快楽により実を結ぶに至らない人を指します。

●では、「良い地」とはどんな土地なのでしょうか。それは立派な自分ではないのです。
 「良い地」とは神の言葉を命がけで慕い求める魂の事です。「良い地」については15節にその応えがあります。皆さんお一人お一人は良い地でしょうか。良い地の人とは次の三つの条件を満たす人の事を言います。

@立派な善い心でみ言葉を聞く人がその第一です。聞くと言う事がなければ私たちは神を知る事が出来ません。

A第二の事は「良く守る」と言う事です。この事は大変難しい事です。聞いたみ言葉を自分の中にしっかりと留め置くと言う事が大切です。でそのためには一体どうしたら良いのでしょうか。この一週間に皆さんがこの事を考えて欲しいと思います。大切な事は、自分の」行動基準」をみ言葉に置くと言う事です。

B最後に大切な事は、忍耐して〜実を結ぶまで耐え忍ぶと言う事です。

●もし、今、心の状態が道ばたであったり、石地であったり、茨であったりするかも知れません。心配しないで、神様との霊的な交わり、み言葉への謙虚な傾聴、継続的な祈りをとおして「良い地」に変えて頂きましょう。
 私たちは聖書のみ言葉に押し出されて人生の難問に立ち向かう時に本当の充実した人生があります。皆さんの心が、み言葉を受け入れ、豊かな結実を見る「良い地」でありますように。 

2005/02/06(日) 「主の驚くべきみ業と向き合って」(詩編111:1〜6)大嶋博道牧師
総員礼拝説教

今年の教会標語の本論を共に学びます。(1/16の礼拝で、この標語を選んだ理由と「主の驚くべきみ業」とは何か?ということを共に学びました。)

●今日のみ言葉の中心は3節の「主の成し遂げられることは栄え輝き、恵みの御業は永遠に続く」にあります。詩篇を通して神様は私たちの魂に語ってくださいます。
詩篇には私たちの人生の中で経験する様々な事が語られています。

●今年の教会標語「主の驚くべきみ業」の「み業」とは、
 @歴史において示された神の聖なるみ業
 A自然界において示された神の偉大なるみ業
 B私たちの日常生活の中において私たちに行われる神の驚くべきみ業です。(仕事・学び・家庭生活・健康・人間関係等)

本論:
 さて、私たちはこのような主の驚くべきみ業とどう向き合って生きたらよいのでしょうか。
どういう信仰的態度で生きるかを考えて見ましょう。それは次の4つの事が言えます。

@先ず第一には、この主の驚くべきみ業に信頼することです。
  詩31の15節に「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し、あなたこそ私の神と申します」とある通りです。

A第2番目には、この主の驚くべきみ業に感謝することです
詩75の2節に「あなたに感謝をささげます。神よ、あなたに感謝をささげます。御名はわたしたちの近くに いまし人々は驚くべき御業を物語ります。」とあるとおりです。

B第3番目には、驚くべき主のみ業に期待することです。
忍耐して希望をもって待つ事です。詩62の2節に「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神はわたしの救いである。」とあるとおりです。

Cそして、最後に「主の驚くべきみ業に向き合う」ために大切なことは「献身」することです。
信仰をもって決断し、全存在をもって神に応答すること、我が身を捧げる事です。一人の信徒としては「教会の聖なる業に仕える事」です。ローマ12の1に「・・・自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」とあるとおりです。)

まとめ:
詩編77の12〜13「私は主のみ業を思い続け、いにしえにあなたのなさった奇跡を思い続け、あなたの働きを一つ一つ口ずさみながら、あなたのみ業を思い巡らせます。」

●今年一年の終わりにはこのうちのどれも出来なかったね、という事がないようにしたいものです。


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