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2005/05/29(日) 「人生のヤボクの渡しで」大嶋博道牧師
(聖書) 創世記32:23〜32

【はじめに】
 D.J.ライダーとD.A.サピーロの「人生に必要な荷物・いらない荷物」(英語では[Repacking your bags for the rest of your blessed life])は、私たちが生きて行く上で何が最も必要な所持品かを考えさせる本であります。
著者は、「人生」をかばんに例え、私たちはその中にいろいろなものを詰め込んで生きてきた、と言うのです。そして、今まで歩んできた人生を振り返ると共に、これからの人生が豊かに祝福されるために、カバンの中身を詰め直すことを勧めています。

 今朝のテキストは、族長ヤコブの「ヤボクの渡し」での宗教体験の箇所ですが、この物語から「私たちの人生のあり方」を見つめてみたいと思います。

【序  論】
ヤボクの渡しに来るまでのヤコブの人生を一言で表現すれば、「逃亡の人生」と言えます。双子の兄エサウからの逃亡、伯父ラバンからの逃亡、そして根本的には神の聖なるご計画からの逃亡です。 
 
 創世記32章23節以降によると、ヤコブはヤボクの渡しにおいて、家族や家畜や財産すべてを向こう側に渡らせることが出来ました。しかし、子どもでも渡ることが出来たこの川を、彼はどうしても越えることが出来なかったのです。
 32章25節を見ると、何者かが夜明けまで彼と格闘した、とあります。彼が夜を徹して「格闘した」相手は、神ご自身であったのです。ヤボクの渡しで一人渡りきれないで立ち止まっているヤコブに「決して他人からも自分からもそして神ご自身からも逃げてはならない」と告げたのでしょう。夜を徹して、神と真剣に向き合う事(祈り)によって彼は勝利を得、無事に「ヤボク」を渡ることができたのです。

【本 論】
 彼の神秘的な宗教体験から、私たちが人生で遭遇する「ヤボク」を無事に渡り、豊かに生きるためにどうすればよいのかを学びましょう。

(1)神との真剣な組み打ち(格闘)― 人生をかけた祈り(32:25)
ジョン・ウエスレーは毎朝5時に起きて「祈祷室」で祈るのが日課でした。祈りは神を動かし、状況を変える偉大な力です。日々、神と向き合いましょう

(2)ペニエルの体験―常に神の臨在に触れ続ける。(32:31)
信仰生活は、神の臨在に触れ、神の臨在を確信して生きる豊かな歩みです。

(3)永遠の平安の実感―自らの上に太陽の輝きを見る。(32:32)
ヤボクでの神との組み打ちは夜の出来事でしたが、彼が勝利を確信して心に平安を与えられたのは日が昇る朝のことでした。闇は光に変えられます!

【まとめ】
 私たちは、人生の越えがたい「ヤボク」という試練や困難な出来事の中で、日曜ごとの礼拝生活と日々のみ言葉と真剣な祈りによるデボーションをとおして神と組み打ちし、臨在を確信し、まことの平安を得たいものです。

人生のヤボクの川を渡るために何を捨て、何を手にし、誰と共に歩むべきかを再確認したいものです。           


2005/05/22(日) 「さらに良いぶどう酒が」大嶋博道牧師
フレンズサンデー礼拝 (聖書)ヨハネ2:1〜11

序 論:
 ヨハネ2:1〜11の出来事には、2000年を経た現代においてもなお、幾つかの学ぶべきことがあります。(3/12土に聖地旅行で「カナ」を訪れました)
@ 婚礼の祝いの真っ最中に「ぶどう酒」がなくなった。(2:2)
当時の婚礼の祝いは一週間続くのが慣例でした。そして婚礼で一番大切なのは「ぶどう酒」だったのです。詩編104:14に「ぶどう酒は人の心を喜ばせる」とあります。ぶどう酒がないなら喜びもなくなり、従って婚礼の祝いの終焉を意味しました。
私たちの人生にも、仕事や家庭生活において突然襲ってくる試練によって「ぶどう酒」が尽きることがあります。そのことをこの出来事は示しています。

Aイエス・キリストご自身には聖なる時がある(2:4)
では、「ぶどう酒」が尽きた時にはどうしたら良いのでしょうか。婚礼の場に居合わせた母マリアは息子イエスに「ぶどう酒」がなくなった事実を伝えました。主イエスは「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と、言われました。母マリアに対する理解しがたいイエス様のお言葉です。私たちはこの言葉をとおして、主イエスには神の子としての、人間に束縛されない、自由な「聖なる時」があることを学ばなければなりません。「イエスの時」とは、十字架に架かり、贖いの業を成し遂げられる時、死人の中から復活される時、そして天に帰られてやがて再びこの世に再臨される聖なる時でありましょう。 たとえ、母と言えども、イエス様の「聖なる時」を勝手に変えることはできないのです。

B「奇跡のみ業」を信じて準備して待つことの大切さ(2:5〜6)
 しかしながら、一見、母の願いを突き放すような冷たい言葉に感じられますが、にもかかわらず、母マリアは召使いにこう言われました。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしなさい。」 2:7を見ると、イエス様が言われるままに、召使いたちは6つの水がめに水を満たしたとあります。奇跡がなされるためには、信じて準備し、イエス様のお言葉に従うことが大切なのです。

C 「信仰生活」は最後がさらに祝福される!
 2:9〜10を読むと、婚礼のお祝いの世話役たちの驚きと戸惑いと喜びが感じられます。自分たちは水がぶどう酒になったことを知らなかったこと、従って、こんな良いぶどう酒をどこにしまっていたのか?ある聖書の訳では、世話役は花婿を呼びつけてこう言ってます、「良い酒は先に出すものだ。質の落ちるヤツは酔ったころに出すんだ。お前ときたら、今まで良い酒をとっておいたのか。」

 まとめ:
 信仰生活は祝福です。それは、永遠に続く祝福なのです。そして、それは、日々、新たに造り変えられるすばらしい祝福なのです。ある牧師がキリスト教のことを「雨のち曇りのち晴れ」と言いましたが、私は、キリスト教信仰は「雨のち曇りのち晴れ、そして最後は快晴」と付け加えたいと思います。信仰生活は「さらに良いぶどう酒」が豊かに約束されています。そのように信じて歩みたいと思います。

2005/05/15(日) 「霊の導きに従って歩む」大嶋博道牧師
(聖書)ガラテヤ5:16〜26

序 論:
今日はペンテコステ礼拝を守ります。
「人生は戦いである」と言われます。イエス様は「あなたがたには世で苦難がある」と言われました。(ヨハネ16:33)そして信仰生活においても戦いはしばしばあります。
それは「肉の戦い」であると共に「霊の戦い」でもあります。しかしながらそれらの戦いの中にあっても、私たちは勝利を得ることが出来るのです。なぜなら、「わたしはすでに世に勝っている」と言われるイエス様が共におられるからです。聖霊なるイエス様の導きによって私たちは勇気が与えられ、この世に勝つ力が備えられるのです。

 使徒言行録2章1〜4節には「ペンテコステ(聖霊降臨日)」の出来事が書かれています。その頃、弟子たちは一つになり、心を合わせてひたすら熱心に祈っていました。
その待ち望む群れに聖霊は降ったのです。そして聖霊を受けた弟子達は、

@イエス・キリストを「主である」と告白する明確な信仰を持つようになったのです。
「イエスは主である」とは、私たちの命を支え、日々の生活を支配しておられるお方が主イエスであるということです。

Aさらに、甦られた主イエス・キリストを力強く証しする群れに変えられたのです。(2:24,2:32,2:40,4:12)

Bそして弟子たち一人一人が新しく造り変えられ、神を賛美する姿が周囲の人々に好意を持たれるまでになったのです。(2:43〜47)

本 論:
ガラテヤ5:16〜25で、パウロは「霊の導きに従って歩みなさい(生活しなさい)と繰り返し勧めています。「霊の導きに従って生活する」とはどういうことでしょうか?
それは、「聖霊」を指導原理とする生き方です。言い換えれば聖霊を生活の根拠、生きる原動力とすることです。聖霊は私たちを教え、強め、導き、支え、内側を潔めて下さいます。「霊」に導かれて生きるキリスト者は、決して肉の欲を満たすようなことは
しません。むしろ豊かな実を結ぶことが出来るのです。それは「愛、喜び、平和(神との関係)、寛容、親切、善意(他人との関係)、誠実、柔和、節制(自分自身のこと)」の9つの実であります。

日々、聖霊に導かれて歩みたいものです。そのためにも、み言葉に聴くことと、祈りをささげることに励みましょう。私たちは「内住のキリスト」なる聖霊によって強くされるのです。

2005/05/09(月) 「神のみ手に委ねなさい」大嶋博道牧師
(聖書)マタイ6:24〜34

序 論
●今日の御言葉から学ぶ中心的な事は「あなたを神のみ手に委ねる」と言う事です。
では何故私たちは思い煩うのか?
私たちの生活の重要な事が私たちの心を虜にしてしまう、支配するという事が「思い煩う」という意味です。私たちは当然に、不確かな明日に不安を持っています。否、持ちます。
 
 2000年前から今日に至るまで人は誰1人として思い煩いのない人生を生きた人はいません。そして今もすべての人は例外なく思い煩いながら生きています。
●では人は何故思い煩うのか?それは、
@生きているから思い煩うのです。
A人は人生が自分の思い通りになると思い込み、そしてその通りにはならないから思い煩うのです。
B人は自分の持っているもので満足しないから思い煩うのです。
C人は他の人と比較し、競争してしまうから思い煩うのです。
D人は自分の不確かな明日を神様に委ねきって生きていけないから思い煩うのです。
本 論:
●今日のみ言葉には「思い煩う」という言葉が何度となく出てきます。ではイエス様が言われたように、思い悩まずに神のみ手に委ねて生きていける根拠は何処にあるのか。
それは次の2つの事にあります。

@それは6章26〜27節に「見なさい」と言う言葉が出てくるように「空の鳥」「野の花」を見て、そしてその花・鳥にも神様がご配慮されている、そのようなものにも美しく装ってくださり養っていてくださっている「神様」を見る事にあります。

A次に大切な事は神様は私たちが必要とするものをご存知であると6章32節にあるように神は私たちの必要を知っていてくださると言う事にあります。
それはあのアブラハムが一人子のイサクを生贄として捧げようとした時に「小羊」の捧げものを予め準備してくださったように神様は私たち人間が必要としているものを知っていてくださるのだと言う事を知る事により、思い煩う事なく生きていけるのです。

●箴言27章1節に「明日のことを誇るな。1日のうちに何が生まれるか知らないのだから」とあります。明日の事は神様の領域なのです。
だから私たちは明日の事で思い煩う事はないのです。
           

2005/05/01(日) 総員礼拝 「我が恵み汝に足れり」 大嶋博道牧師
(聖書)コリント二12:1〜10フィリピ4:11〜13 

序 論:
●「足る事を知る」「満足する事を知る」という事が今日のみ言葉の主題です。
私たちの生活は今もなお比較的恵まれた日々と言えます。にも拘わらず不平とか欲求不満があるのではないでしょうか。そんな私たちに今日のみ言葉は語りかけてくるのです。どんな境遇にあっても「足る事を知る」ように教えているのが今日のみ言葉なのです。
 この事を書いた時のパウロの境遇が、満足出来るような状態ではなかっただけに余計に私たちの胸を打つものがあります。でもパウロは私たちに語りかけているのです。「常に喜んでいなさい」と。
本 論:
●では何故そのように言う事ができるのでしょうか。
それはUコリント12章9〜10節に「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」とあるようにキリストにある私たちは弱い時にこそ強いからです。パウロは強い人でしたが、キリストを知ってからは弱い人となりました。そして弱い人となったパウロは強い人となったのです。何故なら弱さのなかにこそ神様は十分に働いてくださる事をパウロは知ったからです。

●次に大切な、弱いときにこそ強くなれる励ましのみ言葉はフィリピの信徒への手紙4章12節にある「いついかなる場合にも対処する秘訣を授けてくださる」神様と共にいると言う事です。私を強くしてくださるお方と結びついていてこそ強くなる事が出来るのです。それは神様においては不可能な事は何一つ無いから
です。神様の恵みはとてつもなく大きいのです。パウロはそれを体験しているからこそ、私たちに力強く語りかけるのです。

●足ることを知る、と言う事は私の人生を肯定する事です。自分の人生に○(丸)をつける事です。そこから新しいエネルギ−が沸き出でてくるです。

「瞬きの詩人」水野源三さんは9歳の時に大病を患い、以来言葉とからだの自由を奪われ、その後の人生はほとんど自室で過ごされました。13歳の時に洗礼を受けました。彼は不遇の中でたくさんの詩を書き上げましたが、最初の詩のタイトルが
「わが恵み汝に足れり」だったそうです。彼は47歳で生涯を終えましたが、最も不幸と思われる境遇の中にあって「神の豊かな恵み」を受けていたのです。

私たちも「我(主イエス・キリスト)が恵み、汝(あなた)に足れり」との言葉を心の耳で聴きながら喜びに満たされて歩みたいものです。


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