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2005/06/26(日) 「あなたがたは地の塩・世の光」大嶋博道牧師
フレンズ・サンデー礼拝   (聖書)マタイ5:13〜16

序 論:
 本日の聖書箇所は、マタイによる福音書の中の「山上の説教」と呼ばれる中の一部であります。「あなたがたは地の塩・世の光である」、これは聖書の中でも非常に有名な言葉の一つであります。

● 塩と光は日常生活に絶対欠かせない高価なもの 
 塩と光、これは私たちの生活に欠かせないものです。イエス様は私たちが理解しやすいように生活に密着した事柄を譬えとして語って下さいました。
●「塩」と「光」の役割とは まず塩はどのような役割を持っているでしょうか。一般的には、塩は腐敗を防ぎ、ものを純化・浄化します。しかし、塩の最も大きな役割は味を付けることです。料理に塩を使わなければまずおいしいものを作ることはできません。『地』とは私たちの生きているこの世界を意味しています。イエス様は「あなた方はこの世界にとても素晴らしい味を付けていく存在なのだよ」と、おっしゃってくださっているのです。
では光はどのような役割を持っているでしょうか。光はものを照らし、明るくすることができます。そして前方に導く役割を持っています。
 共通点は、どちらもそれ自身のために存在するのではなく、他のものを生かし、輝かすために存在します。

本 論:
(1)どうしたら地の塩・世に光になれるのか?
 イエス様は、私たちが地の塩・世の光になれるかどうかではなく、「あなたがたは地の塩・世の光である」と宣言しておられます。
 聖書は私たちのことを徹底的に罪人であり、何の力も持たないものであると述べています。しかしそうであるならば、私たちが自分の力でこの世界に素晴らしい味を付けたり、この世界の闇を照らしたりすることができるはずもないことは明らかなはずであります。しかし、それでも尚イエス様は私たちのことを「あなたがたは地の塩・世の光である」と宣言しておられるのです。
 私たちが、ただイエス様を信じて心から従っていく時に「地の塩・世の光」とされていくのです。地の塩、世の光の主体は「イエス様」だからです。

まとめ:
  まことの塩である神様に味付けられる時に私たちは「塩味のきいたキリスト者」になり、まことの光である神様に照らされ、すべてを知られ、主に委ねきった時に、「光に照られた=聖霊に満たされたキリスト者」とされるのです。
@私たちをあるがまま「地の塩・世の光」としてくださっていることに感謝しましょう。
Aそして私たちを「地の塩・世の光」として下さった方から何があっても離れる ことなく、歩んでいきましょう。
Bそして「地の塩・世の光」としてこの世に遣わされていきましょう。
  

2005/06/19(日) 「彼らの信仰を見て」 大嶋博道牧師
(聖書)ルカ5:17〜26 

序 論:
 この出来事は3福音書に記されており、当時も今もイエス様の伝道生涯の特筆すべき奇跡の出来事であり、神の子としての権威を示すものであり、また、「信仰とは何か」ということを私たちに教える具体的な事例でもあります。
まず、聖書に従って、状況説明をさせていただきます。

@出来事の場所―ガリラヤ湖の対岸にあるカフェルナウム、おそらくペトロの家の近くだろうと思われます。
A登場人物―イエス様の他に、ファリサイ派の人々、律法学者などの宗教家たち、遠く から、近くから集まってきた群衆、この物語の主人公である4人の男たちとその友人の 中風(不随)を患った病気の男。
B4人の男たちの行為―中風の病人を床ごと運び、屋根に上がって瓦をはがして病人を イエス様の前につり降ろした。
Cイエス様がなされたこと― (1)罪の赦しの宣言と(2)中風という病気の癒しです。
Dその結果―病人は起きあがり、床を担いで紙を賛美しながら帰っていった。

本 論:
今朝、このテキストから共に学びたいことは5:20の「イエスはその人たちの信仰を見て」というみ言葉の持つ意味です。 もう一度テキストに目を向けて、4人の男がしたことを確認しておきましょう。

@中風の男を床のままイエス様の元へ運んできた。
A群衆に阻まれて中に入れなかったにも拘わらず、彼らはあきらめず、屋根の瓦を壊し、床をつりおろしてまでも病人をイエス様の元へ導いた。
イエス様は彼らの何をご覧になったのでしょう。「見る」という言葉のギリシャ語「オラオー」は凝視する、見抜くという意味で、外側でなく、むしろ内面に目を向けられてしっかり見抜くという言葉です。
 今朝、イエス様がご覧になった4人の男たちの「信仰」がどのようなものであったかを幾つか述べてまとめます。

(1)一貫して変わらない信頼と確信を伴った信仰
(2)罪が赦され、義とされることを待ち望む信仰
(3)どんな困難な状況でもあきらめないで耐え忍ぶ信仰
(4)一人の友人のいのちを支えようとする愛の伴った信仰

まとめ:
信仰の父アブラハムはイサクをささげた時、神は、彼の行為でなく、委ねきった信仰を神をご覧になられました。今朝、神様はあなたの「信仰」を見ておられます。
あなたの日々の生活の根底にある「信仰」が生きているか死んでいるか、本物か偽物か、神様はご覧になっておられます。
 真実に歩みたいものです。神はあなたを必ず立ち上がらせてくださいます!

2005/06/12(日) 「偽 善 者」 畑中康雄勧士
信徒礼拝  

序 論:
●この聖書の箇所は、天国の民の行為の動機が「偽善」であってはならない事を「施し」(1節〜)、「祈り」(5節〜)、「断食」(16節〜)の3つの例によって教えられています。この3つが取り上げられたのは「施し・祈り・断食」が当時のユダヤの3大善行と言われていたからです。

●偽善的な行為とは己を神としてしまう様な行為を言うのです。偽善と形式主義に陥り自己満足となり自分が律法となってしまっている事が、何れは神様の十字架と復活という光に照らされる時に暴露される行為を言います。「偽善」とは「本心からではなくて、うわべだけ繕ってする善行」の事を言いますが、私たち人間は弱い存在です。誰一人として完全ではあり得ないのです。
 パウロもロ−マの信徒への手紙7章15節この事を言っています。

本 論:
●さて、「偽善者」として「うわべだけの繕いの善行」であっても、一生涯、一度も仮面がはがれる事なく過ごす事ができれば、この「偽善者」はもはや「偽善者」ではなくてある意味で「善行者」であったと考える事が出来るかどうかと言うことですが、この所については大嶋牧師からコメントをいただいています。
 それは、人はやはり罪ある存在なのだから「罪ゆるされた罪人」「義とされた罪人」として神の憐れみによって「良き業に勤しむ」事が大切であり、善行者であったかどうかという事はやがて天国で神様がご判断されるのではないか、と言う内容です。(マタイ25章14節〜40節参照)

●つまり、人はどんなに善行に励んでいても、また仮面がはがれてもはがれなくても所詮は神様の前では罪人であり十字架の贖いを必要とするのですから、仮面がはがれなければそれはそれで良いのではないかというのは誤解を生むのではないか、と言うコメントをいただいています。まさにその通りだと思い
 ます。裁きは人が判断する事柄ではなくて、神様がご判断される事柄です。
 だからこそ、常に善き業に励む事が大切だと思います。

まとめ:
「人はもともと罪ある存在ですから、神の恵みと義の賜物を願いつつ」神様に喜ばれる善い行いが出来るように、そして一生涯あるがままに精一杯、愛の業に励む事によって栄光を神様にお返し出来るようになりたいと祈ります。

2005/06/05(日) 「あなたは愛されています」大嶋博道牧師
(聖書)イザヤ43:1〜4

序 論:
「隣(とな)る人」不在の時代の中で「隣る人」も自分の居場所もなく、孤独な日々を過ごしている人が多くいます。
先日も、ネット上で呼びかけられた若い人たちの「集合自殺」の悲惨な出来事がありました。誰からも愛されていない、必要とされていないことは辛く悲しいことです。
 今朝は、そのような私たちに対して聖書が伝える「神の愛」のメッセージに耳を傾けたいと思います。

本 論:
 今朝のテキストの中心は、イザヤ書43章4節です。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」―この聖書のみ言葉は今から約2750年ほど前に、預言者イザヤをとおして人々に語られた神からのメッセージです。

「愛」とはどのようなものなのか?
 実は「愛」ほど定義することがむずかしいものはないのです。それは「愛」というのは本来、「定義するもの(言葉で説明するもの)」でなく「行為するもの(実践するもの) 」だからです。
今朝、「愛」というものをあえて説明するならば、このようになると思います。

(1)消極的な愛(静的な愛)―じっと耐え、待ち続け、限りなく赦し、そっと見守る愛。
(2)積極的な愛(動的な愛)―受け入れ、理解し、支え、仕え、惜しみなく与える愛
 
 聖書が「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と、神の愛を伝えているのは、実は、このような「愛」を意味しているのです。
では、私たちは、神に「高価で尊い存在」と認められ「愛されるに値する存在」なのでしょうか?

人間存在は「罪」
 私たちは神様に背き、罪を罪とも思わないで、平気で神様のみ心を踏みにじり、自分勝手に生きている者で、よく迷い、悩み、失敗し、過ちを犯し、人を憎み、悪を行います。

なぜ、神は私たちを愛されたのか?
 いったい神様はなぜ、私たちを高価で尊いと言ってくださるのでしょうか。
それは、私たちの側に取り柄があったり、功績があったりしたからではなく、神の子イエス・キリストが十字架上で血を流して死んでくださったからです。イエス・キリストの「いのち」が、私たちが高価で尊い存在とされるために犠牲になったのです。

まとめ:
 あなたは愛されています。今日から、勇気と希望と平安をもって前に向かって歩みましょう。神に信頼して生きる「信仰生活」は、あなたに豊かな祝福と幸せをもたらせます。 



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