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2005/06/05(日)
「あなたは愛されています」大嶋博道牧師
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(聖書)イザヤ43:1〜4 序 論: 「隣(とな)る人」不在の時代の中で「隣る人」も自分の居場所もなく、孤独な日々を過ごしている人が多くいます。 先日も、ネット上で呼びかけられた若い人たちの「集合自殺」の悲惨な出来事がありました。誰からも愛されていない、必要とされていないことは辛く悲しいことです。 今朝は、そのような私たちに対して聖書が伝える「神の愛」のメッセージに耳を傾けたいと思います。
本 論: 今朝のテキストの中心は、イザヤ書43章4節です。 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」―この聖書のみ言葉は今から約2750年ほど前に、預言者イザヤをとおして人々に語られた神からのメッセージです。
「愛」とはどのようなものなのか? 実は「愛」ほど定義することがむずかしいものはないのです。それは「愛」というのは本来、「定義するもの(言葉で説明するもの)」でなく「行為するもの(実践するもの) 」だからです。 今朝、「愛」というものをあえて説明するならば、このようになると思います。
(1)消極的な愛(静的な愛)―じっと耐え、待ち続け、限りなく赦し、そっと見守る愛。 (2)積極的な愛(動的な愛)―受け入れ、理解し、支え、仕え、惜しみなく与える愛 聖書が「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と、神の愛を伝えているのは、実は、このような「愛」を意味しているのです。 では、私たちは、神に「高価で尊い存在」と認められ「愛されるに値する存在」なのでしょうか?
人間存在は「罪」 私たちは神様に背き、罪を罪とも思わないで、平気で神様のみ心を踏みにじり、自分勝手に生きている者で、よく迷い、悩み、失敗し、過ちを犯し、人を憎み、悪を行います。
なぜ、神は私たちを愛されたのか? いったい神様はなぜ、私たちを高価で尊いと言ってくださるのでしょうか。 それは、私たちの側に取り柄があったり、功績があったりしたからではなく、神の子イエス・キリストが十字架上で血を流して死んでくださったからです。イエス・キリストの「いのち」が、私たちが高価で尊い存在とされるために犠牲になったのです。
まとめ: あなたは愛されています。今日から、勇気と希望と平安をもって前に向かって歩みましょう。神に信頼して生きる「信仰生活」は、あなたに豊かな祝福と幸せをもたらせます。
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