ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2005年7月
前の月 次の月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

直接移動: 20163 月  20153 1 月  201412 11 10 9 8 7 月  20139 8 6 5 4 3 2 1 月  201212 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201112 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201012 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200912 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200812 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200712 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200612 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200512 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200412 11 10 9 8 7 6 5 4 月 

2005/07/31(日) 「初めに」信徒礼拝 西脇衛士勧士 
(聖書) 創世記1章1節〜3節     

何か事を始めようとする時、計画があり夢や希望や喜びがあります。そしてそのことに最善を尽くします。創世記には創造と破壊の初めがあり、神様のご計画、夢があります。

T天地創造の初め(1章)(無から創造へ)

神様は天と地と全ての被造物を、完全なものとして造られた。その世界に神の形としての人間を住まわせ、全被造物を治めさせた。神の造られた世界は
@神の愛 A 隣人(夫婦)への愛 B自然への愛 C働くことの喜びに満ち、永遠なるものであった。初めの人アダムとエバは、神と共に歩む清浄無垢な喜びの人であった。

U罪の初め(3:1〜12)(創造〜破壊)

 ところが、この世界にアダムを通して罪が入った。その結果@神と人への愛を失い(霊的・肉的死を招く)A自然界に致命傷を与えた(ロ−マ8:22)
しかし、愛なる神はこの時すでに「人類救済」の予表を示しておられる。
初めの福音(3:15)・セツの誕生(4:25)・ノアの洪水(9:1〜17)

V救いの初め(予表から実現へ)ヨハネ1:1〜14

 キリスト降誕以前、神様は預言者を通して救いに導こうとされた(ヘブライ1:1〜2)
しかし、時が満ち人類救済のため神様は御子を「初めて」この世に遣わされた。そしてイエス様は十字架という形でサタンにかかとを砕かれたが、三日目に死よりの復活という形で、サタンの頭を砕いて罪と死に勝利され創造の初めへの架け橋となって下さった。神様は救いに関する全ての業をなし終えられた。

W救いの成就の初め(ヨハネ1:12)(使徒16:3)(実現から成就へ)

 主イエスを信じ受け入れた時、私の内に救いが成就するのです。その時、創造の初めに神様から頂いた神への愛、隣人への愛、被造物への愛が回復され永遠の命が与えられるのです。

「初めの愛を行え」(黙2:4)とは救いを受けた時に与えられた喜びをもって「神を愛し、人を愛し、仕える業を行い続けなさい」とことなのです。これが、神の創造の初めのご計画であり、夢であり、喜びなのです。主イエス様の十字架と復活により、そこから流れ出る恵みにより、日々その業を成し続けていきましょう。


2005/07/24(日) 「破れの谷間に立つお方」大嶋博道牧師
フレンズ・サンデー礼拝
 (聖書) イザヤ41:8〜14 
 
序 論:
 私たちの人生には「破れの谷間」があります。元より、谷間は破れています。
人生の破れの谷間―それは苦しみであり、悩みであり、試練であり、危機であります。
ある人は病気や事故で、仕事や人間関係で、ある人は大切な家族を失うことによって、思いがけず「破れの谷間」に深く落ち込むつらい経験をします。さらに不安や孤独、絶望が私たちを谷間に陥(おとしい)れることがあります。
しかしながら、聖書は私たちにもっと深刻な、決定的な「破れの谷間」の存在を指し示しています。それは、パウロの言葉で言えば「罪が支払う報酬としての霊的死」(ローマ6:23)であります。また、マタイ25:31〜46には最後の審判の譬えが記されています。
「人生の破れの谷間」の究極は、私たちが神に最終的な審判を下されるということなのです。そのことこそ真に恐れなければならない「破れの谷間」なのです。

本 論:
(1)破れ口に立ったモーセ
 「破れ口」という言葉があります。詩篇106:23に「主に選ばれたモーセは破れを担って御前に立ち」と記されています。これは出エジプト32:30〜35の出来事に基づいて詩篇の記者が書いたわけです。
モーセは民の「破れの谷間」に立って、自分のいのちと引き替えに民の赦しを神に求めたのです。神はモーセのいのちがけの執り成しを見て、民を滅ぼすことを止めました。
モーセこそ旧約における「バアル・ペラツィム(破れ目の主人)」でした。

(2)私たちを「高価で尊い存在」として下さる神
 イザヤ書43章のテキストに「贖う」という言葉が出てきます。43:1には「恐れるな、わたしはあなたを贖う。」と、贖い主なる神の存在が紹介されています。これを預言的にとらえれば、主イエス・キリストによる十字架の贖いを指していると言えます。私たちの罪を引き受け、十字架の上にいのちを犠牲にされたイエス・キリストの贖いの死によって、私たちは罪が赦され、永遠の滅びから救われ、霊的に新しいいのち、永遠のいのちを与えられたのです。

(3)主は破れの谷間に立っておられる!
ヨハネ16:33に「あなたがたに世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」というイエス様の力強いお言葉があります。
 冒頭で、「破れの谷間」についてお話しました。苦難は破れの谷間です。その谷間のまっただ中に立たれ、私たちの破れをふさいで、滅びることのないようにいのちをかけて守って下さるお方がおられます。このお方こそ、バアル・ペラツィムなる主イエス・キリストです。

皆さんの破れの谷間、そこに主は立ってくださるのです。

2005/07/17(日) 「ハガルの目を開かれたので」大嶋博道牧師
 (聖書)創世記21:9〜21

序 論:
 創世記12章から始まる「アブラハム物語」の主人公は、ご存じのように信仰の父アブラハムと妻サラであり一人息子イサクでありますが、注意深く読むと、彼らの陰に隠れたもう一人の女性ハガルとその子どもイシマエルにもスポットが当てられていることがわかります。聖書の二カ所をとおしてそれを学びましょう。

(1)創世記16:7〜14
 ハガルは身ごもると、サラを軽んじる(辱める)ようになり、その結果、彼女は追い出され、荒れ野を彷徨います。しかし、神は彼女を顧み、再び、アブラハムの元に帰るようになります。彼女は「エル・ロイ(神は見ておられる)」の経験をしました。
創世記16章全体はまさに「ハガル物語」と言ってもよいでしょう。

(2)創世記21:1〜8、17〜18 
 サラにやっとイサクが生まれます。しかし、そのことによって、アブラハム家の人間関係はさらに悪化し、ついにハガルとイシマエルも荒れ野に追放されます。ついにパンもなくなり水もなくなってしまい、力尽きた時に、神の使いがハガルに現れます。彼女はついに「目が開かれて」、そこに救いの「井戸」を見いだしたのです。
ついに、神は子どもの泣き声を聞かれ、母ハガルの涙の祈りを聴かれたのです。
人からも自然からも運命からもすべてのものから見放されたかのように見えるハガルとイシュマエルの親子の悲しみを、ただひとりお聞きくださっているお方がいまいた。
創世記21章もやはり「ハガル物語」と言っていいでしょう。

本 論:
この物語から二つのことを心に留めておきましょう!
(1)神は「泣き声」を聞かれるお方である。(創世記16:7,21:17)
神は私たち流す涙を見てくださり、祈りを聞いて下さる(イザヤ38:5)のみならず、神自ら側(そば)に近寄り、困難な状況に目を留めてくださる。

(2)神は私たちの目を開いて下さるお方である。(創世記21:19)
ハガルは荒れ野を彷徨い、井戸のすぐそばに来ていたのであります。しかし、それを見いだす寸前で、彼女は絶望してしまいました。
「神がハガルの目を開かれた」―それは、そのような絶望する者の暗闇に、神様が一筋の光を、希望を与えてくださったということなのです。

まとめ: 
 信仰と希望と愛、この三つのものが、このハガルとイシュマエルの物語で語れられているのは偶然ではありません。信仰が希望を生み、希望が愛を生むのです。目が開かれると私たちは「汝は園の泉、活ける水の井戸」(雅歌4:15)と告白し、神にある平安と希望を抱くことが出来るのです。

2005/07/10(日) 「この時代に仕える」〜キリスト者の献身とは?大嶋博道牧師
伝道献身者奨励礼拝 
 (聖書)イザヤ6:1〜8,ローマ12:1〜2

序 論:
ご存じのように、イザヤ書6章は「イザヤの召命」の出来事が詳細に記されています。この中には大切なポイントが3つあります。
@「ウジヤ王が死んだ年のことである」(6:1)という書き出しで始まる「時代の変化に伴う危機的状況」であります。時は紀元前740年頃のことです。
Aイザヤ自身の生涯を決定する出来事となった「神殿での神秘的な宗教体験」です。
Bしかしながら、神との出会いの体験は、罪の徹底的な「赦し」と共に、時代の中に「派遣される」という「神の召命」にあずかる結果となったのです。(6:8)

●ところで、「献身」とはどういうことなのでしょうか?
狭い意味での「献身」とは、伝道者・牧師になること(直接献身)を意味しますが、より広い意味での「献身」は、キリスト者すべてに期待されているもので、
(1)まず、私たちが神のみ手の中にあること、神の懐に抱かれていることに対する日々の確認と確信です。
(2)この確認と確信に基づいて、私たちキリスト者が自分自身を主の御前におささげしていくということです。
具体的には、日常生活の中で、私たちの時間を、財を、賜物を、愛の業を、奉仕を主のために捧げていくということです。

本 論:
今朝は「この時代に仕える」キリスト者の献身のあり方をパウロの手紙から学びたいと思います。 ローマ12:1〜2を共に開きましょう。
(1)自分のからだを聖なる生きた供え物として献げること。 
「聖」という言葉は、分離されているとか、区別されているというのが、もともとの意味です。そこから、聖という言葉には、キリストによって神様の「専用品」とされているものという意味があります。主に贖われ、主の専用品とされた私たちは、日々、主の十字架を背負い、主の苦悩にあずかりたいものです。

(2)この世に倣わない。(妥協しない)
英語の[conform]は、順応する、適合させる、従うと言う意味です。ギリシャ語のススケーマ「型にはまる」から来ているわけで、ある訳では「この世と調子を合わせる」とか「妥協する」となっています。キリスト者はこの世で生活しておりながら、決してこの世と歩調を合わさず、むしろ、神の御心に沿った歩みをしたいものです。

(3)心を新たにすることによって、神に造り変えていただく。
心の一新と神による変容こそ、この世に倣わず、この世と妥協しない生き方です。「神に造り変えていただく」(メタ・モルフェー)はさなぎが蝶に羽化するとき、ちょうど醜いさなぎが、きれいな蝶に変わる、その変化を指している言葉です。パウロの言葉で言えば「新しく造り変えられる」であります。」

まとめ:
伝道献身者奨励日の礼拝にあたり、私たちすべてのキリスト者が、神に召された献身者であることを確認し、それぞれの生活の場で主に仕えて行きたいと願います。



2005/07/03(日) 「見よ、新しいことを行う」大嶋博道牧師
総員礼拝 (聖書)イザヤ43:16〜20

序 論:
今朝のメッセージは、「新しく造り変えられたい=自分の人生をもう一度新しく整えたい」と、願っておられるすべての方々に語られたものです。 まず、今朝の聖書のテキストを少し学びましょう。
16ー17節の御言葉
この出エジプトの出来事はイスラエル民族の出発点であり、イスラエルの存在は出エジプトという神の救いの業にかかっていると考えられていました。そしてイスラエル人たちは絶えずこの神の救いを思い起こして、将来に希望をつないだのです。
 しかし18節で、神様は、この昔のことを忘れてしまえ、思い出すな、と命令されています。そして19節にこう書かれています。
「見よ、新しいことをわたしは行う。・・・わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。」

本 論:
今朝のテーマは「新しいことを行う」ですが、そのことを心に留めながら、3つのことを学びたいと思います。
(1)誰が新しいことを行うのか?(新しいことを行う主体はだれか?)
 
・それは「主なる神」です。(42:8〜9)―世界の主、私たちの主、私の家庭の主
・それは「創造主なる神」です。(43:1)―人間とこの自然世界を創造された主
・それは「聖なる神」です。(43:3)―罪や汚れを赦さず、常に聖さを示される主
・それは「救い主なる神」です。(43:11)― 人間の罪を贖い、救いに導く主
・それは「永遠の神」です。(43:13)―天地創造から世の終わりまで共にいる主
・それは「王なる神」です。(43:15)―すべてをご自分の手に支配しておられる主

(2)「新しいこと」とは何か?
それは
1・神に背いた罪が赦されるということ (43:25)
2・その結果として、70年に及ぶバビロン補囚から解放されて、再び、神の都エルサレムに帰還がゆるされ、国が再建されるということ ひとことで言えば、「回復」であり「再生」であります。

(3)「新しいことが起こるため」にどうすれば良いのか? 
 エレミヤ29:11からそのことを学びましょう。
主の御名を呼び求めること―この旧約のみ言葉をヨハネ15:5のみ言葉で表現するならば「主イエス・キリストに信仰によってつながり続ける、結びつく、留まり続けること」です。パウロ的に言えば「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」ということです。

まとめ:
今日も、今週も、新しいことが行われるために、主の御名を呼び求め、主に結びついた信仰生活を続けたいものです。


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.