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2005/07/17(日)
「ハガルの目を開かれたので」大嶋博道牧師
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(聖書)創世記21:9〜21 序 論: 創世記12章から始まる「アブラハム物語」の主人公は、ご存じのように信仰の父アブラハムと妻サラであり一人息子イサクでありますが、注意深く読むと、彼らの陰に隠れたもう一人の女性ハガルとその子どもイシマエルにもスポットが当てられていることがわかります。聖書の二カ所をとおしてそれを学びましょう。
(1)創世記16:7〜14 ハガルは身ごもると、サラを軽んじる(辱める)ようになり、その結果、彼女は追い出され、荒れ野を彷徨います。しかし、神は彼女を顧み、再び、アブラハムの元に帰るようになります。彼女は「エル・ロイ(神は見ておられる)」の経験をしました。 創世記16章全体はまさに「ハガル物語」と言ってもよいでしょう。
(2)創世記21:1〜8、17〜18 サラにやっとイサクが生まれます。しかし、そのことによって、アブラハム家の人間関係はさらに悪化し、ついにハガルとイシマエルも荒れ野に追放されます。ついにパンもなくなり水もなくなってしまい、力尽きた時に、神の使いがハガルに現れます。彼女はついに「目が開かれて」、そこに救いの「井戸」を見いだしたのです。 ついに、神は子どもの泣き声を聞かれ、母ハガルの涙の祈りを聴かれたのです。 人からも自然からも運命からもすべてのものから見放されたかのように見えるハガルとイシュマエルの親子の悲しみを、ただひとりお聞きくださっているお方がいまいた。 創世記21章もやはり「ハガル物語」と言っていいでしょう。
本 論: この物語から二つのことを心に留めておきましょう! (1)神は「泣き声」を聞かれるお方である。(創世記16:7,21:17) 神は私たち流す涙を見てくださり、祈りを聞いて下さる(イザヤ38:5)のみならず、神自ら側(そば)に近寄り、困難な状況に目を留めてくださる。
(2)神は私たちの目を開いて下さるお方である。(創世記21:19) ハガルは荒れ野を彷徨い、井戸のすぐそばに来ていたのであります。しかし、それを見いだす寸前で、彼女は絶望してしまいました。 「神がハガルの目を開かれた」―それは、そのような絶望する者の暗闇に、神様が一筋の光を、希望を与えてくださったということなのです。
まとめ: 信仰と希望と愛、この三つのものが、このハガルとイシュマエルの物語で語れられているのは偶然ではありません。信仰が希望を生み、希望が愛を生むのです。目が開かれると私たちは「汝は園の泉、活ける水の井戸」(雅歌4:15)と告白し、神にある平安と希望を抱くことが出来るのです。
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