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2005/07/24(日)
「破れの谷間に立つお方」大嶋博道牧師
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フレンズ・サンデー礼拝 (聖書) イザヤ41:8〜14 序 論: 私たちの人生には「破れの谷間」があります。元より、谷間は破れています。 人生の破れの谷間―それは苦しみであり、悩みであり、試練であり、危機であります。 ある人は病気や事故で、仕事や人間関係で、ある人は大切な家族を失うことによって、思いがけず「破れの谷間」に深く落ち込むつらい経験をします。さらに不安や孤独、絶望が私たちを谷間に陥(おとしい)れることがあります。 しかしながら、聖書は私たちにもっと深刻な、決定的な「破れの谷間」の存在を指し示しています。それは、パウロの言葉で言えば「罪が支払う報酬としての霊的死」(ローマ6:23)であります。また、マタイ25:31〜46には最後の審判の譬えが記されています。 「人生の破れの谷間」の究極は、私たちが神に最終的な審判を下されるということなのです。そのことこそ真に恐れなければならない「破れの谷間」なのです。 本 論: (1)破れ口に立ったモーセ 「破れ口」という言葉があります。詩篇106:23に「主に選ばれたモーセは破れを担って御前に立ち」と記されています。これは出エジプト32:30〜35の出来事に基づいて詩篇の記者が書いたわけです。 モーセは民の「破れの谷間」に立って、自分のいのちと引き替えに民の赦しを神に求めたのです。神はモーセのいのちがけの執り成しを見て、民を滅ぼすことを止めました。 モーセこそ旧約における「バアル・ペラツィム(破れ目の主人)」でした。
(2)私たちを「高価で尊い存在」として下さる神 イザヤ書43章のテキストに「贖う」という言葉が出てきます。43:1には「恐れるな、わたしはあなたを贖う。」と、贖い主なる神の存在が紹介されています。これを預言的にとらえれば、主イエス・キリストによる十字架の贖いを指していると言えます。私たちの罪を引き受け、十字架の上にいのちを犠牲にされたイエス・キリストの贖いの死によって、私たちは罪が赦され、永遠の滅びから救われ、霊的に新しいいのち、永遠のいのちを与えられたのです。
(3)主は破れの谷間に立っておられる! ヨハネ16:33に「あなたがたに世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」というイエス様の力強いお言葉があります。 冒頭で、「破れの谷間」についてお話しました。苦難は破れの谷間です。その谷間のまっただ中に立たれ、私たちの破れをふさいで、滅びることのないようにいのちをかけて守って下さるお方がおられます。このお方こそ、バアル・ペラツィムなる主イエス・キリストです。
皆さんの破れの谷間、そこに主は立ってくださるのです。
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