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2005/08/27(土) 「命に至る門」大嶋博道牧師
フレンズ・サンデー礼拝(聖書) マタイ7:13〜14 

序 論: 
 今朝は「狭い門から入りなさい」というイエス様の代表的な教えの一つからお話します。
「狭い門」という言葉は、入学・就職などの競争が激しい時に使われますが、もともと、この聖書の言葉に由来しています。(アンドレ・ジイドの「狭き門」もジョン・バンヤンの「天路歴程」もこのみ言葉に由来する?)

●何が「狭き門」なのか?
 かつて九州大学の教授であった故滝沢克巳先生は、「狭い門というのは、天の父とのつながり、接点をあらわしていて、天の父とのつながりというのは、全く細い道・狭い門だ」とおっしゃっています。そのとおりだと思います。
 
 現代という時代は特に神様とのつながりということを度外視して、人や物やお金と結びつこうとする時代です。また、コンピューターや「how toもの」の書物に依存しがちです。本当の意味での宗教が軽んぜられる時代です。
それは一見楽な広い道だけれど、実は生き生きした命には至れない道、時にはその終極は滅びの道なのかも知れません。今の殺伐とした時代の哀しみを見るとなんとなく分かるような気がします。
 
 神とのつながり、天の父との接点を通してしかものが見えるとか、何かが聞こえるとか、他の人を愛するとかいうことは起こらない。だから、神とのつながりという「狭い門」から入りなさいというのが、この聖書の言葉のメッセージです。(ヨハネ10:9、ヨハネ14:6、使徒言行録4:12参照)

本 論:
 私は、この箇所から2つのことをお伝えいたします。
(1)「狭き門」をくぐる方法
 私たちの努力ではない。「神のみ前に罪人である」「罪からの救いを必要としている」と認めること。そしてただ、主イエス・キリストを自分の救い主として信じることだけである。主の恵みと慈愛にすがりつきつつ、謙遜に自分の罪を認め続けていくこと。へりくだることなしに、狭き門をくぐることはできない。

(2)「命に至る門」へはただ決断が求められている。
 「狭い門」から入るか、「広い門」から入るかを決めること。狭い門は命に至る門であり、広い門は滅びに通じる門だと、イエス様は言われました。私たちは決断が求められています。
「命とさいわい―死と災いをあなたの前に置く」。あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える」(申命記30:15〜20参照)

まとめ:
「命に至る門」は祝福と喜びと平安と希望に溢れています。ただ、信仰によってそこに入れさせて頂きたいと願います。皆さんの祝福をお祈り致します。

2005/08/21(日) 「どのように生き、死ぬのか」大嶋博道牧師
聖日礼拝説教 (聖書)ローマ14:7〜8 
序 論:
(1) まず、人間とは何か?を聖書から定義しておきましょう。
@人間は神に造られた「被造物」である。(創世記1:27)
A人間は生きる存在である。(創世記2:7)
Bしかしながら、人間は、「罪」の存在である。(ローマ3:23)
@「人間は死に至る存在」である。(哲学者のハイデガーの言葉)
Dしかしながら、人間は神の賜物である「永遠の命に至る存在」であ る。(ローマ6:23)

(2)人生の生きる目的は何か?
 作家の五木寛之さんは「人生の目的は、“自分の人生の目的”をさがすことである」と述べ、ある人は「私は、そのために生きたいと自分が心から思えればそれは何でもいいと思います」と述べています。
 では、聖書が教える」「人生の目的」を紹介しましょう。
使徒パウロは「わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。・・・」
(ローマ14:8)と、生きる目的を明らかにしました。

本 論: 人はどう生きて、どう死ぬのか?
 アメリカの哲学者レオ・F.バスカーリア博士は絵本の「葉っぱのフレデイ」をとおして人生の生き方と死に方を説明しています。ここから学ぶことは、

@人はいつか死ぬ。だからこそ命を大切にすること。と共に、葉が変わるように私たちも変わる。死ぬこともまた変化の一つで、決して恐ろしいものではない。

Aどう生きることが人生の目的を遂行することになるのか?それは自分で考え、決断し、行動すること、つまり主体的に生きて自分の使命をまっとうすることであります。生きるということは、自分を必要としている他者に応答すること(response)です。なぜなら、私という存在は、たった一人でここにあるのではなくて家族・友人・社会といった切り離すことが出来ない関係の中におかれているからです。
「生きることは問われていることに答えること」(フランクル)

まとめ:
 人生の目的は人によって異なります。しかし、聖書ははっきり述べています。「神の愛に応答して互いに愛し合いながら生きることである」と。愛を完成させる―ここに人生の究極的な目的があります。そのために
@気づき、
A決断し、
B行動(応答)し続けたいものです。
 2テモテ4:6〜8を読んでお祈りしましょう!

2005/08/14(日) 「人間をとる漁師に」西脇衛士勧士
信徒礼拝 (聖書)マタイ4:18〜22
              
誰でも今の自分でない自分になりたいと思う変身願望があります。ここに「○○にしてあげよう」と言われる方がおられます。素晴らしい彫刻家は一つの石の塊の中に、自分の作品のイメ−ジを投影し、その石にのみを入れイメ−ジ通りに作り上げていくのです。イエス様は真に名彫刻家です。一漁師シモンを大使徒ペテロ(岩)に作り変えられたのですから。

1、主の選び・・・無学な普通の人、日々ガリラヤ湖で魚を追う一漁師であったペテロを撰ばれた。そこには主の主権と目的があった。 (Tコリント1:27〜28)

2、主の招き・・・「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と声をかけられた。主がしばしば使われたこの招きのことばは、単に教えを学ぶためについて来なさいというのではなく、「これからの歩みの全てをわたしと共にせよ」という言葉であり、声を掛けられた者は、選択の余地が無いほどの強い命令だったのです。

3、主への応答・・・すぐに網を捨てて従ったペテロ
@生活の全てを捨てる献身であり、A自分の今まで一番大切にしてい価値観を捨て、主イエス様と寝食を共にし従う生活がはじまったのです。

4、主のお取り扱い・・・主の栄光の前に、自らの罪人たることを教えられ、主のお働きの内に神性を見出し、霊の目が開かれて「あなたこそ生ける神の子キリストです」との信仰告白に導かれたのです。ペテロはいつも主の側にいて、心から主を愛した人であった。が、ゲッセマネの祈りにおいては眠りこけてしまい、主の十字架を前にして、三度主を否んでしまった弱さを持った人物でもあった。この粗雑とも思えるペテロという素材を用いて大使徒とされたのです。その背後には、主の深いご愛と祈りがあったからです。そして、ガリラヤ湖で魚をとる漁師ではなく、人間の魂をとらえるところの漁師に仕上げられていくのです。

5、 新しい出発・・・そのペテロを大岩へと作り上げたのは聖霊のバプテスマであった。彼は、全く改造され、かつてイエス様を十字架につけた群衆を前にして「あなたたちが十字架につけて殺したイエス様こそ、約束のメシヤであり、なたたちが神の子を殺す大罪を犯したのだ」と大胆に訴えている。ご聖霊は彼の内にあって、何ものをも恐れないで、人々を悔い改めに導く力強いペテロへと変えられたのです。あのシモンがペテロへと変えられていったのは、主の招きに実直に応えたところから始まったのです。

6、私たちへの招き・・・私たちも、日々主の語りかけに耳ざとくなり、応答し続ける中に、神のみ心が実現する者へと作り変えていただけるのです。
まさに、そのことを成してくださるのは、イエス様の恵みとご聖霊の働きによるのです。

2005/08/07(日) 「荒れ野よ、喜び躍れ」 大嶋博道牧師
 総員礼拝説教   (聖書) イザヤ35:1〜10 

序 論:
キリスト教は「回復の宗教」と言われています。
「回復」とは一度失ったものを取り戻すことであり、壊れたものを元のとおりにすることを意味します。
今朝、開きましたイザヤ書35章はまさにその象徴的な箇所であります。
35:1「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ」「砂漠よ、喜び、花を咲かせよ、野ばらの花を一面に咲かせよ」
35:6「荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」
これは、神の約束です。神はイスラエルの民に、素晴らしい未来を約束しておられます。それは「救い」の約束です。
 荒れ野は人が住むことが出来ない不毛の地、死のにおいのする所です。その荒れ野、荒れ地に花が咲き、砂漠に水がわき出て、川が流れる―これは、まさに神がなされる奇跡です。これがキリスト教と言ってもいいでしょう。
ある聖書注解者はこの奇跡を「革命的変化」と呼びました。

本 論:
 預言者イザヤが生きた時代は暗い時代、希望がもてない時代でした。BC740年ごろのこと、隣国アッシリアが強大な力をもって諸国を制覇している時代で、イスラエルの民はその力の前に怯えていました。
政治の腐敗、社会の混乱、その中にあって人々は拠り所を失い、絶望が支配し、深い悲しみと不安と失望と焦りとが支配していました。
21世紀に生きる私たちも在る意味では暗黒の時代、希望がもてない時代を生きているのかも知れません。
私たちの存在は「荒れ野」であり「荒れ地」そのものです。
そのような私たちに聖書は「喜び躍るようになる」と、約束しています。

喜び躍るとはどういうことでしょうか?
(1)主の栄光とその輝きを見ること−神の重々しい臨在とそのみ業を体験すること
(2)神の救いを体験すること−捨てられた民が赦され、再び回復し、神の愛の中に招き入れられること。
(3)勝ち得て余りのある人生を体験すること(ローマ8:37)

まとめ:
 「荒れ野」であり「荒れ地」である私たちが、このような神の祝福にあずかることが出来るという聖書の約束に堅く立って信仰生活を続けたいと思います。


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