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2005/08/07(日)
「荒れ野よ、喜び躍れ」 大嶋博道牧師
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総員礼拝説教 (聖書) イザヤ35:1〜10 序 論: キリスト教は「回復の宗教」と言われています。 「回復」とは一度失ったものを取り戻すことであり、壊れたものを元のとおりにすることを意味します。 今朝、開きましたイザヤ書35章はまさにその象徴的な箇所であります。 35:1「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ」「砂漠よ、喜び、花を咲かせよ、野ばらの花を一面に咲かせよ」 35:6「荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」 これは、神の約束です。神はイスラエルの民に、素晴らしい未来を約束しておられます。それは「救い」の約束です。 荒れ野は人が住むことが出来ない不毛の地、死のにおいのする所です。その荒れ野、荒れ地に花が咲き、砂漠に水がわき出て、川が流れる―これは、まさに神がなされる奇跡です。これがキリスト教と言ってもいいでしょう。 ある聖書注解者はこの奇跡を「革命的変化」と呼びました。 本 論: 預言者イザヤが生きた時代は暗い時代、希望がもてない時代でした。BC740年ごろのこと、隣国アッシリアが強大な力をもって諸国を制覇している時代で、イスラエルの民はその力の前に怯えていました。 政治の腐敗、社会の混乱、その中にあって人々は拠り所を失い、絶望が支配し、深い悲しみと不安と失望と焦りとが支配していました。 21世紀に生きる私たちも在る意味では暗黒の時代、希望がもてない時代を生きているのかも知れません。 私たちの存在は「荒れ野」であり「荒れ地」そのものです。 そのような私たちに聖書は「喜び躍るようになる」と、約束しています。
喜び躍るとはどういうことでしょうか? (1)主の栄光とその輝きを見ること−神の重々しい臨在とそのみ業を体験すること (2)神の救いを体験すること−捨てられた民が赦され、再び回復し、神の愛の中に招き入れられること。 (3)勝ち得て余りのある人生を体験すること(ローマ8:37) まとめ: 「荒れ野」であり「荒れ地」である私たちが、このような神の祝福にあずかることが出来るという聖書の約束に堅く立って信仰生活を続けたいと思います。
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