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2006/01/29(日) 「いちじく物語に学ぶ」畑中康雄勧士
信徒礼拝(聖書)マタイ21:18〜22/ルカ13:6〜9

■ルカ13章6節以下に出てくるいちじく物語は3年間も実のらないので主人は場所も取るし、土地を痩せさせてしまうから切り取るように僕に言います。しかし、僕はもう1年待ってくださいと頼み、更に「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」とまで言いす。この譬え話しは、神様が私たちに悔い改めるように説き続けておられるのに一向に悔い改める様子のない私たちに対して、忍耐に忍耐を重ねてしかも、肥やしまでやって待っていて下さるという事が語られています。


■それに対して今日の聖書のいちじく物語はイエスが空腹を覚えられて食べられる実がないかと近づかれましたが、葉が茂っているだけでそこには実がありませんでした。そこでイエスは「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われるといちじくの木はたちまち枯れてしまった」と言う物語です。
 いちじくの木の価値はその木が実を付ける事にあります。信仰と祈りの値打ちはそれがもたらす実践的な結果にあります。実のならないいちじくが枯れてしまったこのイエスの教えは私にとっては「実践的な祈りのないお前は枯れてしまえ」と言われているように感じ取れるのです。
 
 さて、ここでルカ13章6節以下のいちじくの話を思い起こしてください。忍耐強く待つと言う言葉に続いて9節には「もしそれでもだめなら、切り倒してください」とあります。つまり「肥やしをやりながら1年待つがそれでも実がならなかったら切り倒す」と言われているのです。私はここの箇所に今まであまり注目していませんでした。


■イエスはいつも罪人に優しく語りかけられ、いつも赦しを与えられていました。しかし「役に立たない」と言う事には厳しい言葉を残しておられます。例えばルカ10章25節以下では「追いはぎに襲われ、傷ついた旅人の側をなにもしないで通り過ぎていった祭司とレビ人」を非難され「その人を憐れに思い、介抱した良きサマリヤ人を良き隣人」となったと言われています。「学ぶだけで実践を伴わない信仰」「隣人への愛を伴わない信仰」「イエスの教えを実行しない、実を結ばない信仰」を厳しく戒められました。

神との正しい交わりのもとに「自分を神様に献げる事の出来る信仰」が無ければ「あなたは枯れる」と、この二つのいちじくの物語は教えているのです。実践の出来る信仰を持ちたいと願います。

2006/01/22(日) 「悲しみが喜びに変わる」大嶋博道牧師
F.サンデー礼拝(聖書)ヨハネ16:16〜20 
序 論:
現代社会の悲しみ−人間は悲しみを背負って生きる存在だと言われています。悲しみを意味するギリシャ語「リュペー」は悲嘆、苦悩、苦痛とも訳せます。確かに、私たちを取り巻く現代社会には様々な「リュペー」があります。
 悲しみを引き起こす元になるものはどのようなものでしょうか?愛する家族や友人を失うこと、大切にしているものを失うこと、健康を損ねること、仕事を失うこと、災害や事故に遭うと、失敗をすること、計画が崩れること、物事が思い通り運ばないこと、信頼を裏切られること、誤解されること、無視されること、分かってもらえないこと、見捨てられること・・・・・悲しみの要因はあまりにもたくさん存在しています。

 今朝のメッセージの中心は「リュペー」(悲しみや苦痛)は必ず「喜びに変わる」ということです。どうしたらそうなるのでしょうか?まず、今朝のテキストに目を向けましょう!今日の箇所は、主イエスが十字架につけらる前の「告別説教」の一部です。イエスは弟子たちに「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」(十字架の死)、「またしばらくすると、わたしを見るようになる」(復活)と語られます。彼らは理解出来ず、悲しみだけが彼らを覆っていました。
 主イエスはこう言われた後すぐに、「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(20節後半)。
あなたがたの悲しみや苦しみは、「しばらくすると」喜びに変わる!と約束されました。イエスはこの転換を妊婦が赤ちゃんを産む時の例をもって説明しました。

本 論:
「悲しみは喜びに変わる」(ヨハネ16:20)の意味を考えてみましょう。 
ニーチェという哲学者は「ツァラトゥストラ」という作品の中で、「喜びは悲しみの中に浸透する」と言ってます。ギリシャ語では「変わる」でなくて「〜になる」というギノマイという言葉が使われています。性格に訳せば「悲しみが喜びに創造される」となります。私たち自身の人生の歩みの中にあるいろいろな困難や悲しみや苦悩が、神の創造の業によって喜びへ移って行く、と言う意味です。
ペトロは「今しばらくの間、色々な試練に悩まねばならないかもしれませんが、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています」(1ペトロ1章6〜9節)と、言いました。この苦しみは、「しばらくの間」のものにすぎず、かならず終わること、終わればそこには喜びと希望という実りが結ばれることが約束されています。

「しばらく」とは、ミクロンという言葉です。ほんのわずか、一時のものにすぎないのです。そのことを信頼して、今の苦しみと悲しみが、喜びに変えられていくことに希望をおいて、苦しみと悲しみとを背負っていきたいと思います。悲しみの中にすでに神は喜びを用意しておられるのです。悲しみから創造される喜びは、どのような力によっても奪い去られることはないのです。
 復活の主の偉大な力に支えられて、悲しみや苦悩を背負って行きたい。そこにすでに永遠の喜びが用意されているのです。祝福をお祈り致します。

2006/01/15(日) 「信仰をもって生きていますか」 大嶋博道牧師
聖日礼拝説教 (聖書)コリント二13:5〜6

序論:
●人間が人間らしく生きていくためには「信仰」が必要です。ところが現在の日本においては不思議なことに、この事にあまり関心がないようです。他の国では信仰を持つことは人間が人間であるための条件のように考えられていますが。
 では「信仰」とは何か。ヘブライ11章1節によると「望んでいる事柄を確信すること(希望するものの保証)」であり、「まだ見えない事実を確認すること(見えないものの証拠)」でありま
す。信仰とは現実と共に、未来に向けられているものなのです。

本論:
●今日のみ言葉によるとパウロはコリントの教会の信徒たちに、「信仰をもって生きているか反省し、自分を吟味しなさい」と勧めています。では「信仰をもって生きる」とはどのような生き方
でしょうか。それは次のように言うことが出来ます。

@「委ねて生きる」と言うことが第1の事です。自分に出来る最善の努力をしたあとでこの事が言えるのです。今日と言う日を最善をもって努力し、これ以上は自分の領域では無いと言う状態になった時に「委ねる」と言うのがこの生き方です。委ねる人生には思い煩いがありません。

A「信頼をして生きる」と言うのがその第2の事です。信頼するとは「主は近くにおられる事実」を確認すること、「主は語っておられる事実」を経験すること、「主に愛されている事実」を味わい知ること、「主は最善をなすお方である」と知ること、「主のみ言葉は真理であり、決して滅びないという事実」を確信することです。イザヤ43章にある通りとおりです。

B「待ち望みつつ生きる」と言うのがその第3の事です。主に望みを置く事です。主に期待すると言う事です。イザヤ40章31節には主に望みを置く人は新たな力を得…疲れない」とあります。これが信仰をもって生きると言う事です。

C「主の愛をもって他者に仕える」と言う事がその第4の事です。ガラテヤ5章6節には「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」とあります。信仰に生きるキリスト者は愛をもって心から他者に仕え、他者に応答する人生を喜びとします。

●イエス・キリストに結びついている人はこれらの事が出来るのです。聖書と向き合う事、日々、聖書のみ言葉を食べて生きる人になると言う事が大切ではないでしょうか。み言葉を常宿させましょう。   

2006/01/08(日) 「神の召しにふさわしく歩む」大嶋博道牧師
新年礼拝[教会標語の学び](聖書)エフェソ4:1〜6
序 論:
 まず、「神の召しにふさわしく歩む」を今年の標語に掲げた理由をお伝えします。
@この時代の中で、神様はご自身の聖なるご計画を成し遂げるために一人一人を召しておられることを確認したい。
A神の召しにふさわしく歩むとはどういうことなのかを確認する一年でありたい。
B主に召されたキリスト者は神を中心(軸)にしてお互いの「一致を保つこと」の大切さを確認したい。
 
 エフェソ4:1〜でパウロはエフェソの教会の信徒たちに「神の召しにふさわしく歩みなさい。」と勧めました。「召し」とは、いつもそこに「召して下さるお方」と「召される者」とがいます。また、「召し」の目的があります。私たちの場合は、召すお方は神であり、召される者は私たちであり、召しの目的は、私たちを神の民として、キリストのからである教会に加えて下さるということです。

本 論:
1:私たちは神に召されている。
 「召されている」とはどういうことなのかを旧新約聖書に登場する人物から学びましょう。
@アブラハムの召し−創世記12:1〜4 Aイザヤの召し−イザヤ6:1〜8
Bパウロの召し−ローマ1:1〜7 これらの人物の召命物語には一つのパターンがあります。
(1)神に選び出され  (2)聖別され (3)聖なるみ業を成し遂げるために神のみ前にあるということ。
私たちも神の御心を行うために神に呼び出され、聖別され、使命を果たすように神のみ前に立たされています。

2:「召しにふさわしく歩む」とはどういうことか?
ふさわしいとは「それに値する」ということです。それにピッタリはまっている。
具体的にはどのような生活をすることなのか?パウロはエフェソ4:1〜3で4つのことを述べていま
す。これらは相互に深い関係を持っております。
(1)謙遜ー謙遜とは、自分が謙遜であることすら意識しない心の姿なのです。
(2)柔和ーバランスのとれた中庸。「柔和」とは「自制」と同義語。
(3)寛容ー不屈の精神のことで、「報復する力がありながら報復しない精神」
(4)愛を伴った忍耐ー忍耐が現実に実を結ぶためには「愛」が必要です。
(5)一致−このような生き方をする人には平和があり、「一致」が生まれます。

まとめ:
 「召された」私たちの生活の営みはそれぞれ異なっています。
ある人は社会で働くこと、ある人は家庭を守ること、ある人は地域でのボランティアや様々な活動をすること、学生はひたすら将来を拓くために学ぶこと、いろいろあります。大事なことは「神の召しにふさわしく歩む」ということです。
日曜ごとの礼拝生活、日々のデボーションを大切にしましよう。今ある仕事を大事にしましょう。家庭をぬくもりのある家庭にしましょう。人間関係を大切にしましょう。そして、罪の中に死にかけた魂の救いのために喜びをもって、希望をもって伝道しましょう。キリスト者であることに誇りをもって歩みましょう。
 
 今年一年「私の召し」とは何かを問いながら、「召し」に値する生活をしたいと願います。祝福をお祈り致します。

2006/01/01(日) 「祝福を見る一年に」大嶋博道牧師
元旦・聖日礼拝(聖書)ヨシュア1:1〜9 

  新しい年を心からお祝い申し上げます。
今年も皆様の上に神の祝福と平安が豊かにありますようにお祈り致します。
さて、日本人の多くは年の初めに神社・仏閣に初詣をし、商売繁盛、家内安全、無病息災などを祈願します。
確かに、政治や社会や教育現場の混乱、多発する凶悪な犯罪、長期景気低迷の「先行き不透明」な時代に生きる日本人が「今年こそは祝福をこの目で見たい」と、祈願する気持ちは私にはよくわかります。
しかし、元旦に初詣して神仏に祈願するだけで真の祝福を見ることができるのでしょうか。
年頭にあたり、私たちがどういう歩みをすれば「祝福を見る一年」になるのかを聖書から学びたいと思います。

序 論:
1.「信仰の鏡」のような存在であるヨシュアの生涯から
今朝のテキストにヨシュア(「主は救い」の意)が登場します。彼は出エジプトの指導者モーセの後継者としてイスラエルの民を約束の地に導きます。ヨルダン川を神の命令どおりの手順で渡り、先住民との戦いに信仰の勇気をもって勝利し、老人になっても使命を失わず、最後には「私と私の家族とは共に主に仕えます」との確固たる信仰に立ち、110歳の生涯を終えました。

2.神の約束と命令
ヨシュアはヨルダン川を渡る直前に神の約束(保証)と命令を聴きます。
(約束)一生の間、立ちはだかる敵はいない。あなたと共にいる。見放すことも見捨てることもしない。
(命令)強く雄々しくあれ。(断固とした信念と確信をもて。)  律法(十戒)を忠実に守れ。右にも左にもそれるな。(中心軸をぶらしてはならない。)
そうすれば行く先々で栄え、成功する(祝福を見る。)

本 論:
「祝福」とはどのようなものか?
祝福には次の二つがあります。
(1)霊的祝福(不可視的)−神の愛と選び、イエス・キリストの贖いをとおしてなされた永遠の救い。
(2)肉的祝福(可視的)ー仕事・学び・家庭生活・健康・人間関係など、実生活における幸い。

今年一年、これらの祝福を見るためには下記のことをぜひ実行したいものです。

(1)日々、祈ること。ー特に、朝の5分間の祈りを大切にしよう。祈りは霊的呼吸であり、神との交わりです。「ヤベツの祈り」(歴代上4章)を思い起こしながら、真実で率直な祈りをささげたいものです。

(2)み言葉に信頼し、聴き続けましょう。−聖書を開くこと、読むこと、深く味わうこと、魂の奥深くにみ言葉を常宿させること。

(3)神がなされる最善を期待して行動すること。ー神様は今年も私たちと共に働いて万事を益として下さることを心から信じて、日曜ごとの礼拝生活、デボーション、伝道、証し、奉仕、献身、愛のわざの実践に励みましょう。(ローマ8:28)

まとめ:
 私たちが生きている限り苦難や悲しみや悩みはしばしばついてきます。だからこそ「しかし、勇気を出しなさい。
わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)と言われるお方を信じて従って行くならば、神様は必ず勝利を与えて下さり、今年も豊かな「祝福」を見させて下さいます。


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